連載

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2022年7・8月号 No.540

140個のカプセル、大きさはどう決めた?

A アンサー    1. 完成した状態でトラックに載る

「中銀カプセルタワービル」は、建築家の黒川紀章氏(1934~2007年)が設計し、1972年に完成した分譲マンションだ。保存を求める所有者らが部屋の購入を進めたものの、2021年3月、ビル敷地の売却が決定。2022年4月から解体工事が始まった。

交換を想定して設計された140個のカプセル型住戸は、結局、1つも交換されることはなかった。しかし、それをもってこのプロジェクトを「失敗」と見るのは早計だ。

「タカラ・ビューティリオン」が前哨戦

黒川氏がカプセル建築を世に知らしめたのは、1970年の大阪万博だった。理容・美容の設備などを扱うタカラベルモントが出展した企業パビリオン「タカラ・ビューティリオン」だ。同社創業者の吉川秀信氏は、まだ30代前半だった黒川氏に設計を依頼。「どこよりも早く完成させる」という吉川氏の要望を受けた黒川氏は、ジャングルジムのような構造体に、カプセルを組み込んだ建築を考案した。現場では、わずか7日間で完成したという。

このタカラ・ビューティリオンを大阪万博で見て、ある実業家が黒川氏に分譲マンションの設計を依頼する。中銀グループの創業者、渡辺酉蔵とりぞう氏だ。同氏は1957年から貸ビル事業会社を営み、都市の人口増加に対応する高層化住宅に着目していた。1961年に中銀マンシオン株式会社を設立。1972年、「中銀カプセルタワービル」を完成させた。

垂直に立つ2本のシャフトを「塔状人工土地」ととらえ、その周りに140個のカプセルを片持ちの状態で設置した。一方は地上11階建て、もう一方は13階建てだ。主体構造は鉄骨鉄筋コンクリートのラーメン構造。施工上、階段室を早い時点で使用できるようにするため、床板とエレベーターシャフト壁にはプレキャストコンクリートを用いた。

「ほぼ100%完成」させて現場に

カプセルは幅が約2.5m、高さが約2.5m、奥行きが約4m。室内にはバス・トイレのユニットとベッドが付き、壁面には収納式のデスクや電話、オーディオ装置、電卓などが備え付けられた。画期的だったのは、これを別の場所で「ほぼ100%完成」した状態にしてから、現場で取り付けた点。フレームだけでなく、室内設備を装着したものを現場に運んだ。

ゆえに、運搬するカプセルのサイズは実際と同じ2.5m×2.5m×4m。これは8トンコンテナとほぼ等しいという理由で決められた。

カプセルは主に滋賀県のコンテナ工場で組み上げられ、トラックに載せて約450km離れた銀座の現場まで運ばれた。敷地が狭く、ストックヤードがほとんどなかった。このため、カプセルは取り付け順に合わせて、毎日次の日に取り付けるものを運送した。

施工期間は13カ月。相当スピード感のある現場だったと想像される。

カプセルホテル第1号は今も現役

工場で部材の大部分を組み立ててから車で現場に運ぶ。そうした手法は、現在では「ユニットハウス」などと呼ばれ、建設現場の事務所や展示施設などで当たり前に使われている。中銀カプセルタワービルではそれを「ほぼ100%完成」した状態で移送することを実現しており、かなり先駆的だったといえる。

黒川が定着させた別のカプセル技術もある。それは「カプセルホテル」だ。これも、きっかけは1970年の大阪万博。黒川氏が設計した「空中テーマ館」の住宅カプセルだ。大阪でサウナや飲食店を展開していたニュージャパン観光社長の中野幸雄氏は、これをヒントとして宿泊専用カプセルの設計を黒川氏に依頼。1979年開業のカプセルホテル第1号「カプセル・イン大阪」が生まれた。

中銀カプセルタワービルは姿を消すが、こちらは当時のカプセルが今も数多く使われている。

 

参考文献・資料:
新建築1972年6月号、タカラベルモントWEBサイト、「カプセルよ、転生せよ」(磯達雄、日経アーキテクチュア2019年12月26日号)、「黒川流前衛を打ち出した“元祖”カプセルホテル」(倉方俊輔、日経アーキテクチュア2009年2月23日号)

 

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