連載

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2021年6月 No.529

小さな閘門が物語る江戸の大きな干拓史

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


江戸時代の前まで、くっついたり離れたりしながら暴れていた荒川と利根川。徳川家康の「利根川東遷とうせん、荒川西遷せいせん」によって2本の川は切り離され、間の土地に生まれたのが見沼溜井ためいだ。干拓後に築かれた通船堀の閘門こうもんが、壮大な江戸の土木事業の歴史を今に伝えている。

 

何年も前、自転車で荒川サイクリングロードを走りに行っていた時期がある。その頃、埼玉の彩湖あたりから東へ逸れたところに古い閘門こうもんがあると知り、一度だけ訪れた。それが見沼通船堀だった。

閘門とは、高さの異なる二つの川や運河を船で行き来するために、せきで水位を調整する施設のこと。日本の閘門としては、古くは第12回で紹介した岡山の倉安川吉井水門から、新しいものでは例えば東京・江戸川区の荒川ロックゲートなどがある。(しんこうweb:https://www.shinko-web.jp/series/1767/

船の幅ギリギリのかわいらしい閘門

私が見沼通船堀の閘門を初めて見たときの印象は、「ずいぶん小さくてかわいらしい」というものだった。資料によれば、幅2.7mしかない。ここに幅約2.3m、しかも200俵もの米俵を積んだ船を通したというから驚きだ。

閘門は木造で、「角落かくおとし」と呼ばれる板を両側の柱に当て、これを10枚ほど積み上げることで水をかさ上げする方式だったと考えられている。二つの堰(関)からなり、陸上から20人がかりで船を綱で引き上げて一の関を通過させた後、角落としを差し入れて水位を上げ、船を二の関まで進めてもう一度同じ作業を繰り返す。こうして2段階で合計3mの水位差を越えさせたという。

現在の閘門は復元されたものだが、最初の閘門が築かれたのは、見沼通船堀が開通した1731年のこと。じつは、この閘門式運河が開削された背景には、遠く徳川家康の時代に計画された壮大な土木事業が関係している。

▲見沼通船堀東縁の閘門(一の関)。奥に小さく見えているのが二の関。
一の関を船が通過した後、鳥居型の門柱に角落しの板を取り付けて、
二の関が通過できるようになるまで水位を上昇させる。

▲見沼通船堀西縁。閘門を使って船を通すこうした運河を「閘門式運河」と呼ぶ。
見沼通船堀は明治時代になってからも通船が盛んだったが、
陸上交通の発達によって次第に需要が減り、昭和初期の1931年に廃止。1982年に国指定史跡となった。

家康の「瀬替え」が生んだ溜池と代用水

江戸時代より前、この場所には見沼という大きな沼があった。古代には東京湾とつながる入り江だった一帯に、海が後退して残された沼の一つだ。

見沼開拓の歴史は、家康の「利根川東遷、荒川西遷」を発端とする。家康は江戸を洪水から守るために、利根川と荒川の流路を変更する「瀬替え」を計画した。利根川は東へ寄せて渡良瀬川へつなぎ、銚子から太平洋へ。荒川は西へ寄せて入間川と合流させ、隅田川から江戸湾へ。この工事を取り仕切ったのが伊奈忠次・忠治の親子だ。

だが、この瀬替えによって見沼の水量が減り、農業用水が不足してしまった。そこで1629年、忠治は見沼の南端に「八丁堤」という長い堤防を築き、溜井ためい(用水池)を造成した。こうした灌漑かんがい方式は「関東流」と呼ばれる。

しかし、この見沼溜井の完成によって、下流域では農地開発が進んだものの、農地が増えたために次第に水が足りなくなったうえ、大雨時には溜井の水があふれ、田や住宅への浸水に悩まされることになった。

それからおよそ100年後の1727年、新田開発を進めた8代将軍吉宗によって、見沼の干拓が計画される。井沢弥惣兵衛やそべえ為永ためながの指揮により、八丁堤を切って見沼溜井の水を落とし、新田とした。これが、現在の見沼田んぼの始まりだ。同時に新田の東西両側に用水路が、中央には排水路がつくられた。用水路と排水路によるこの灌漑方式は、為永の出身地にちなみ「紀州流」と呼ばれた。

用水路は60kmも北を流れる利根川から取水するもので、新田の上流で東西に分岐する。見沼溜井の代わりになる用水路という意味で、「見沼代用水」と名付けられた。排水路は芝川となり、下流で荒川に合流する。紀州流の灌漑によって多くの米が取れるようになり、この地の石高は2倍になったという。

▲見沼代用水西縁。見沼代用水は2019年に、かんがい施設遺産に登録された。

沿岸の村を江戸と結ぶ通船堀のアイデア

さて、新田で取れた年貢米を江戸に運ぶにはどうするか。鉄道のない時代、重たい米を陸路で長距離輸送するのは大変だ。そこで為永は考えた。代用水と芝川を運河で結べば、沿岸の村々で取れた米を船で運ぶことができるじゃないか―。こうしてつくられたのが、芝川を境に「東縁ひがしべり」390m、「西縁にしべり」650mの見沼通船堀だった。

田に引き込んだ余剰水が自然に排水されるように、芝川は東西の代用水よりも低い位置に通してある。このため、通船堀の東縁、西縁それぞれに閘門を設けて水位差を解消したのだ。

今回記事を書くために再訪した現地で、今の天皇陛下が皇太子時代に視察されたことを耳にした。陛下のご専門は水上交通史で、講演録『水運史から世界の水へ』でも見沼通船堀に触れられている。

家康の瀬替えに始まり、溜井の造成、干拓を経て生産性向上と水上ネットワークの形成へ。見沼通船堀の小さな閘門は、江戸の土木事業のダイナミズムを体現していたのである。

▲芝川。向かって左から通船堀西縁、右から通船堀東縁が流れ込んでいる。

▲通船の経営に携わった鈴木家の住宅が現在も残っている。

 
■アクセス
JR武蔵野線東浦和駅から通船堀西端まで徒歩約3分。
 

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