かわいい土木
水準原点に秘められた オランダの治水技術
Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP 社刊、共著)
日本の標高の基準、日本水準原点。ローマ神殿風の石造建築にがっちり守られた重要な「目盛り」だ。その基準づくりには、明治期にお雇いオランダ人技師のもたらした治水技術が大きく貢献していた。今回は「日本の水準原点の原点にオランダあり」というお話。
国政の中枢である東京・永田町。日本水準原点は、まさしくその「一丁目一番地」にある。国会議事堂と皇居内濠に挟まれたこの敷地には明治時代、陸軍参謀本部陸地測量部が置かれていた。
現在は憲政記念館の構内となっていて、誰でも入ることができる。駐車場を抜けた先の公園を見渡すと、石造りの建屋を発見。水準原点を格納する「標庫」だ。
標庫は建築面積14.93㎡、高さ4.3m。実際の印象は、写真よりずっと小さくてドボかわいい。このサイズ感には不釣り合いなほどの重厚さとローマ神殿風の凝った意匠もチャーミングだ。
水準原点そのものの正体は、目盛りが刻まれた水晶板。長さ数十センチのこの目盛り板を“ご神体”のようにうやうやしくお守りしているのが標庫なのだ。
▲菊紋のついた鉄扉を開けると、水準原点の目盛り板が見えるようになっている。
▲「水準原点」を示す銘板。
語呂合わせで決まった?水準原点の標高
日本で近代的な測量が始まったのは、明治維新の後。課税やインフラづくりを目的とする内務省系の官庁と、国防や軍事戦略上、地図制作を急ぐ陸軍系の官庁が当初は別々に測量事業を進めていたが、1884年(明治17年)には陸軍参謀本部に統合。1891年(同24年)に日本水準原点が設置された。
土地の高さは海水面を基準に表されるが、その高さは常に一定ではない。そこで、実際の測量に使える固定された基準点を陸上に設けるわけだ。
ちなみに、日本水準原点の目盛り「0」は、東日本大震災の後の測量によって現在は標高24.39mに修正されているが、設置当初は標高24.5mだった。
なぜ、そんな半端な高さに決めたのか。1929年発行の『明治工業史・土木篇』には「明治24年5月、水準原点を設け、その零分画の位置を真高24m50のところに一致せしめて設置し」という内容の記述がある。明治24年5月だから24.5m?だとしたら、ちょっと面白い。
▲日本水準原点標庫。設計者は建築家の佐立七次郎。1996年に東京都指定有形文化財として指定され、2019年には日本水準原点とともに選奨土木遺産に認定された。
荒川の観測を基に東京湾の平均海面を決定
さて、土木史的にさらに興味深いのはここからだ。この水準原点の成り立ちに、明治初期の日本で活躍したオランダ人の土木技師が関わっていたのである。
日本の標高は、東京湾の平均海面T.P.(Tokyo Pail)を基準としている。水準原点の標高24.5mも、T.P.0mを基点として測ったものだ。このT.P.の基になったのが荒川の基本水準面A.P.(Arakawa Pail)で、参謀本部がA.P.+1.1344mをT.P.0mと決定した。
ではA.P.はどのように決まったかといえば、内務省が荒川河口の霊岸島で1873年から1879年にかけて毎日潮位を観測し、その平均値をA.P.0mとした。この潮位観測に使われた量水標を設置したのが、河川整備のために明治政府が招聘した「お雇い外国人」であるオランダ人技師のリンドだった。
1872年(明治5年)にファン・ドールンを技師長とするチームの一員として来日したリンドは、利根川と江戸川の11カ所に量水標を設置し、水位観測を開始。翌年6月には霊岸島にも量水標を設置した。観測した零位を後にA.P.と名付けたのもリンドだという。
じつは、この一連の作業のなかで、リンドは日本最初の水準原点も設置していた。千葉県銚子市の飯沼観音の境内に今ものこる「水準原標石」だ。参謀本部が日本水準原点を設置する19年前のことだった。
▲霊岸島の検潮所があった場所には現在、シンボリックな観測柱が設置され、荒川水系のデータ観測が続けられている。
オランダ流の「低水制」がもたらしたもの
オランダ人技師たちが日本に伝えた治水技術は、川の中に構造物(水制)を築いて水の流れをコントロールするもので、「低水制」と呼ばれる。洪水を防ぎつつ、堤防を低く抑えて川を水路として利用できるメリットがあった。ファン・ドールンが手掛けた安積疏水は、この工法の成功例として名高い。
しかし、平らな国土を持つオランダと違い、高低差が大きく川の流れも急な日本では、低水工法は難易度が高かったようだ。交通の中心が舟運から鉄道へ移ったこともあって、川の利用より治水が重視されるようになり、貯水ダムや高い堤防で洪水を防ぐ「高水制」が主流になっていく。活躍の場を失ったオランダ人技師たちは、相次いで帰国。リンドも1875年には日本を後にした。
2021年は、日本水準原点が設置されてから130周年に当たる。もちろん今も全国に約2万点ある水準点の文字通り「原点」として現役だ。この国土の高さの基準づくりに、オランダ流の治水技術が貢献したことにも思いを馳せてみたい。
【冊子PDFはこちら】