連載

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2018年11月号 No.503

かわいい土木 「潮抜き穴」の物語る執念の新田開発

江戸時代、九州の諸大名が船で参勤交代に赴く際の拠点として発展した門司。享保の大飢饉で多くの餓死者を出したことをきっかけに、猿喰湾の干拓による新田開発が計画された。それまで海だった土地で米をつくるには、まず土壌に含まれる海水由来の塩分を抜く必要がある。海水の流入を防ぎつつ、田からの排水を効率よく進めた「潮抜き穴」の遺構を訪ねた。

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP 社刊、共著)


北九州市の北東側、新門司港の近くに「猿喰(さるはみ)」という珍しい呼称の地区がある。作物を荒らした猿を殺したところ祟りがあり、祠を建てて霊を鎮めたという伝承に由来するという。江戸時代半ばまで、ここには猿喰湾という入り江があった。湾の入り口に堤防を築き、干拓してできたのが猿喰新田だ。
干拓とは、干潟を堤防で仕切り、海水の流入を止めることで陸地化する方法だ。埋め立てとは異なり、よそから土砂を運び入れるわけではないので、土地には長い間、塩分が残る。この土中の塩気を抜くための画期的な工夫こそが、猿喰新田に遺る「潮抜き穴」だ。

潮の干満を利用して田の塩分を抜く仕組み

JR門司駅からタクシーに乗る。市街地を抜け、谷間を縫うように15分ほど走ると、水田の広がる田園地帯に出た。猿喰新田だ。広さは約33ha。田んぼの奥、周防灘の一歩手前に「猿喰新田潮抜き穴跡」がある。2003年に北九州市指定文化財に認定されているが、訪れる人は多くないらしく、タクシーの運転手も「知らなかった」と言う。
堤防の上は舗装道路になっている。横から見ると、石積みの堤防から馬蹄形の突起がピョコピョコと二つ並んで飛び出しているのが、どこかユーモラスでドボかわいい。縁に立って中を覗くと、井戸のようになっていて水が溜まっているのが見えた。

道路部分が堤防。左側が猿喰新田、右側に周防灘がある。馬蹄形の石積みは手前が「唐樋」の1号樋門、奥が「南蛮樋」の2号樋門。南蛮樋はオランダの技術で、ハンドルを操作して門扉を上下させる。いずれも、近くに新しい水門ができ、現在は使われていない。

堤防の上から見た1号樋門。穴の下には長さ30mほどの暗渠管が堤防を貫いており、堤防側に招き戸がある。

潮抜き穴の構造はどうなっているのか。堤防の下には暗渠管が貫通しており、小さな水門がついている。これを「樋門」と呼ぶ。田に用水路から真水を引き込み、干潮のときは水門を開けて海へと排水する。満潮時には、海水が田に流入しないように水門を閉めておく。これを繰り返すことで、田の土に含まれた塩分が少しずつ洗い流される仕組みだ。

1号樋門の仕組み。潮が満ちてくるときは招き戸が閉じ、潮が引くときは招き戸が開く。

つくりの異なる2基の樋門に新田開発の苦難を想う

潮抜き穴は430mの長さの堤防の東西両側に2基ずつ、計4基築かれた。現在残っているのは東端の2基だけだ。
不思議なことに、1枚目の写真の手前側の1号樋門と奥の2号樋門では形式が異なる。1号は潮の干満差によって自然に招き戸が開閉する「唐樋(からひ)」、2号は人がろくろ(ハンドル)を回して扉を上下させる「南蛮樋(なんばんひ)」。暗渠管のつくり方も別々だ。1号が岩盤をトンネルのようにくり抜いているのに対し、2号は地表面から開削し、両脇と天井を板石で支えている。このことは、何を意味しているのか。

水田側から見た樋門。右の1号はトンネル状にくり抜き、左の2号は両側と天井を板石で押さえている。

北九州市のホームページに転載されている資料「門司の歴史」の江戸時代の項に、猿喰新田についての記述がある。それによれば、庄屋だった石原宗祐(そうゆう)が私財を投じて干拓に着手したのは1757年。だが、地盤が軟弱だったため工事は難航し、関係者の誰もが諦めかけた。
ところが、宗祐だけは一歩も引かず、小舟に石を運び込んで沈め、基礎とする方法を編み出す。こうして、1年がかりで堤防は完成。とはいえ、その後も苦労の連続だった。堤防内に残った大量の海水を抜き、溜め池や灌漑用水を開き、土中の塩分を洗い流す。一連の作業が完了し、新田からようやく米を収穫できたのは1773年のことだった。
現存する2基の樋門がまったく異なる形式なのは、つくられた年代が別々だからではないだろうか。これを示す資料は見つからなかったので、ここから先は私の憶測だ。
堤防ができ、猿喰湾の干潟が周防灘と切り離された後、宗祐はまず東西に1基ずつ樋門をつくった。しかし、なかなか思うように塩分が抜けず、いつまでたっても米は育たない。そこで、もう1基ずつ樋門を追加し、塩抜きの速度倍増を図った――。もしそうならば、形式の異なる2基の樋門こそ、16年間に及ぶ新田開発の苦難を物語る証、ということになる。
宗祐がこの事業に執念を燃やした背景には、1732年の「享保の大飢饉」によって、地元の大里村で100人を超す死者が出た体験があったという。人を飢えから救う力も、土木にはある。

現在の猿喰新田。地元の有志が「門司猿喰あまざけ」を開発し、地域おこしに取り組んでいる。


アクセス

西鉄バス「猿喰」から徒歩約15分。タクシーなら門司駅前から15分程度。

 

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