名建築のつくり方

名建築のつくり方
2026年7・8月号 No 580

未知の極寒に耐え、簡単につくれる構造は?

A アンサー    1. 人が運べる重さの木質パネルを観測隊員が自分で組み立てた

1956年11月8日、南極観測船「宗谷」に乗船した第1次南極地域観測隊が東京・晴海埠頭を出港した。今年は70年の節目となる。

観測の拠点となるのが「昭和基地」だ。第1次隊が越冬のために建てた建物は全部で4棟。主屋棟(食堂棟)、居住棟、無線棟の3棟は木質パネルの組立式家屋。発電棟だけが、パイプ骨組みに断熱天幕を張ったパイプ造だった。木質パネルの3棟は「日本初のプレハブ建築」とされる。

これらの開発は、建築家の浅田孝を中心とする日本建築学会南極建築委員会が基本設計を、竹中工務店が実施設計と製作を担当して進められた。

開発の条件は極めて困難なものだった。候補地の気象条件はほとんど不明。建設地が岩なのか氷なのかもわからない。そんな場所に材料を観測船で輸送し、数週間で設置する必要があり、部品は軽く、施工は容易でなければならない。

最大積雪量2m、最大風速80m/秒、最低気温-60℃に耐えるという目標を設定。施工専門の作業員を大勢連れていくことはできないので、現地で隊員たちが自ら完成させる方式を目指すことになった。

木質パネルを結合金具で留めるだけ

外壁・屋根・床に利用したパネルは、厚さ10cm。ヒノキの枠材の両側にカバ材の合板(6枚重ねて接着)を張り付け、間に断熱材としてドイツ製の発泡スチロールを挟んだ。

パネルの重量は力のない学者が4人で運べるよう1枚80㎏以下に制限した。大きさは、最悪の場合にヘリコプターでも運べるよう、ヘリのドアサイズを考慮して4尺×8尺(121×242cm)に統一。土台の上に床梁を架けて床パネルを置き、壁や天井のパネルを建てていく。パネルのつなぎ目はゴムを挟み、簡単な締め付け金具で組み立てる。屋根を支える梁はあるが、いわゆる「柱」はない。

国内で建屋が完成したのは出発間際の1956年9月末。10月に入って隊員たちの組み立て訓練を実施。11月初旬のギリギリの段階で船積み。11月8日に出航した。

隊員53人は出港から約3カ月かけて東オングル島に到着。1957年1月29日に上陸し、昭和基地と命名した。

53人のうち越冬するのは11人。南極は南半球なので、日本とは季節が逆。この時期が最も暖かい。2月1日に建設に着手。2月14日に完成した。夏隊のメンバーは、越冬メンバー11人を残して2月15日に離岸した。

11人は、翌58年2月までの1年間、ブリザードや食料の流出といった数々の危機を乗り越え、小さな昭和基地を守った。

現在も木質パネル構造が主流

冬季の建屋内外の温度差はおよそ60℃。外壁が木製というのは少し心配にもなるが、構造強度と断熱を兼ね備える素材として木材は最善であったという。このときにつくられた主屋棟は昭和基地に残っており、現在は倉庫として活用されている。

とはいえ、当時は気候や地形がよくわからなかったため、その後の建屋建設では改良も加えられた。大きく変わった点は、第8次隊からコンクリートの基礎を使うようになったこと。以前は地面に建屋を直接置く形だったが、雪の吹きだまりで出入り口がふさがれてしまうなどの問題があった。そこで、高床式で建物を浮かせ、風を抜く方式に変更した。

1968年の第10次以降は、ミサワホームが建物の製作を受注し、現在まで多くの施設がミサワホーム製の木質パネル構造で建てられている。

観測船が大型化すると、鉄骨フレームや大きなパネルの輸送も可能になった。加えて、大型の重機も運べるようになったことで、2階建て以上の建屋が実現可能に。昭和基地のシンボルとしてよく知られる「管理棟」(1993年完成)は3階建て。1階(倉庫)は鉄骨造で壁がコンクリートパネル、2階と3階は木質パネルを使用している。

※東京の日本科学未来館では、2026年7月1日から 9月27日まで「大南極展」が開催中。

 

参考文献・資料:
「南極建築1957-2016」/LIXIL出版、「南極大陸に立ちて──昭和基地建設記」/清水賢二、竹中工務店のサイト、国立極地研究所のサイト、「おうちで南極体験 南極観測の拠点・昭和基地を知ろう」/たびよみ

 

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