名建築のつくり方

名建築のつくり方
2026年5月号 No 578

金箔の天井を支える柱の仕上げは?

A アンサー    3. 大理石をまねた青い左官仕上げ「石膏マーブル」

「ホテル川久」はバブル経済絶頂期の1991年に開業した。岬の突端に位置しており、海越しに見える外観は、物語の中の古城のようだ。

設計を担当したのは、建築家の永田祐三(1941年生まれ)。大阪出身で京都工芸繊維大学を卒業後、竹中工務店に入社。「三基商事東京支店」(1985年、現存せず)など個性的な建築を手掛けた。1985年、部下の北野俊二と共に独立。永田・北野建築研究所を設立した。

川久は南紀白浜温泉に戦前からある老舗旅館が出発点。当初の名前は「河久」だった。新婚旅行でここを訪れた実業家、安間千之がその宿を気に入り、1949年に経営を受け継いだ。その際、名前が「川久」に変わった。

80年代後半になって老朽化した建物を建て替える際、「歴史に残る建築をつくろう」という話になった。安間とその娘のマダム・ホリ(堀資永)、設計者の永田の3人が中心となって壮大な計画がスタートした。

工事期間は1989年~91年の約2年間。通常、大規模な建物はゼネコンに工事を一任するが、ここではすべての工事をオーナーが直接、各業界の一流の職人たちに依頼した。川久商事部に勤めていたマダム・ホリが自営にこだわり、総指揮をとった。世界中から集まった職人やアーティストが腕を競い、当初180億円ほどだった予算が2倍に膨らんだといわれる。

皇帝しか使えない高貴な瓦

時間とお金がかかったエピソードは枚挙に暇がない。例えば、外観を印象づけるオレンジ色の瓦。北京の紫禁城に使われた瑠璃瓦だ。永田とマダム・ホリが北京に別の瓦を買いに行った際、「せっかく来たのだから」と紫禁城を見に行き、「これしかない」と即決。ところが、老中黄の瓦は中国ではかつて皇帝しか使えなかった高貴な色。瓦の製造業者は首を縦に振らない。マダム・ホリは北京に20回も足を運んで交渉。相手が根負けして、47万枚の瓦を焼いてもらうことが決まったという。

エントランスホールの金箔貼りもそう。アーチ型の天井面には、純度90%以上の「22.5金」のドイツ製金箔(厚さ1ミクロン)を約19万枚貼った。貼ったのはフランスの職人たちで、作業は夏。金箔は少しの風でも飛んでいってしまうため、酷暑のなか送風機もなく2カ月間、貼り続けた。この天井は約30年後の2020年、「最大の連続して金箔押しされた天井」(表面積1056.97m2)としてギネスに認定された。

ありふれた材料でつくった丸柱

紫禁城を思わせる屋根を見て、世界最大の金箔面で覆われた吹き抜けに入り、次に目が向かうのは左右に並ぶ24本の丸柱だ。

青地に白や金の筋が混じり、宝石のような光沢を放つこの柱。どんな高価な石を使ったのかと想像が膨らむが、ここで使ったのは「石膏マーブル」だ。疑似大理石である。

石ならばどこかに目地が表れるはずだが、どこにもそれがない。だから余計に美しい。石膏と顔料というありふれた素材の組み合わせでつくれる。だが、技術とセンスは高度。手掛けたのは、淡路島の左官職人・久住章と、彼が率いる「花咲か団」だ。

石膏マーブルは、大理石が多く採れないドイツの人々が大理石に焦がれてあみ出したフェイクの技法。「シュトックマルモ(Stucco Marmo)」とも呼ばれる。日本ではほとんど使われていなかったこの技術を、久住がドイツに渡って習得。約1年かけて、作業に当たる日本の職人たちに伝授した。1年の訓練費用もすべてオーナーが出したという。結果的にこの柱には、1本1億円(×24本)がかかった。

設計者の永田はこう振り返る。「この異邦人でごった返した建築現場は出島であった。芸術家、技術者、そして職人たちが国へ帰る時がきたとき、私たちはいつもワインを前にささやかな宴を開いた。別れの時がきて涙を流さなかった人は少ない」──。今でもここを訪れると、そんな熱気に包まれる気がする。

 

参考文献・資料:
紀南アートウィーク「キュレーションストーリー Vol.2/南紀白浜温泉 ホテル川久」、左官的塾web「美術的左官小論」(木村謙一)、永田建築研究所公式サイト

 

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