連載

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2018年3月号 No.496

かわいい土木 「朝まで待って」と伝えた明治の灯台

岬の突端に威容を誇る大きな灯台も素晴らしいけれど、古くて小さな灯台のかわいらしさも捨てがたい。瀬戸内海の無人島にちょこんと載った白いエンジェル、鍋島灯台。明治の“お雇い外国人”ブラントンが、この灯台に与えた役割とは――。

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP 社刊、共著)


JRのマリンライナーで岡山から四国へ渡るとき、瀬戸大橋の高欄の間から、小さな丸い島のてっぺんに建つ白い灯台が見える。鍋島灯台だ。鍋島は「大きめの岩」と思えるほどの無人島で、灯台の高さもわずか10m弱。全体のこぢんまりした趣きがドボかわいい。
鍋島灯台に初めて灯が点ったのは1872年(明治5年)12月。明治に洋式灯台が建設されるようになったごく初期のもので、約150年前の創建時の姿がほぼそのまま残っている。

鍋島灯台の全景。1階に半円形の付属室が付いている。ブラントンの設計した灯台に多く見られるデザインだ。隣接する「小与島」の花崗岩を切り出して積み上げた。一般公開は不定期。

難所の手前で船を停める「停泊信号」

幕末にアメリカ、イギリス、フランス、オランダと結んだ通商条約の追加協定(改税約書)で、開港に備えて日本の沿岸に8基の灯台を建設することが決まった。航路標識の整備は、列強をキャッチアップしようと海運の強化に乗り出した日本にとっても、重要な施策だった。
明治に入り、鍋島灯台をはじめ多くの灯台建設を指揮したのが、「お雇い外国人」と呼ばれた外国人技師の一人、イギリス人のリチャード・H・ブラントンだ。
鍋島灯台で面白いのは、建設当初の役割だ。私は、灯台といえば、夜間に船が安全に航行するための目印とばかり思っていた。だが、鍋島灯台は「停泊信号」、すなわち、船がその先へ進まないよう停めるための灯台だったのだ。
瀬戸内海は、東西450km、南北50kmほどの内海に数千の島々が散在する。船は、狭く長い航路を座礁の危険と背中合わせで進まなければならなかった。陸の明かりも今ほどなく、灯台も未整備だった当時、夜間の航海は困難を極めた。外国船はこの航路を「Dark Sea(暗黒の海)」として恐れたという。
だが、夜間の航海が容易になるほど随所に灯台を設置するには、莫大な費用がかかる。しかも、その効果は未知数だ。そこで、ブラントンは考えた。「無理に危険な航海を促すより、安全な場所に停泊させ、夜が明けてから難所を通せばよいのではないか」――と。
こうして香川県坂出市沖の鍋島灯台と愛媛県松山市沖の釣島灯台の2カ所に限っては、船舶の停止信号として使われることになったのだった。

鍋を伏せたような形状から名前がついたと言われる鍋島。元は独立した島だったが、今では堤防で与島と陸続きになっている。「灯台守」の職員が住んだ「灯台退息所」は近代洋風建築として四国村に移築されている。(写真提供:坂出市)

瀬戸大橋が通る与島の南端(画面の右下)に鍋島灯台が見える。

 

「灯台の父」が今に伝える土木の思想

ブラントンが日本で「灯台の父」としてたたえられていることは、以前から知っていた。今回驚いたのは、資料の中に「ブラントンは鉄道技師で……」という一文を見つけたことだ。え、鉄道? 灯台技師じゃないの?
じつは、ブラントンは来日するまで鉄道を専門とする土木技師だった。スコットランドの著名な灯台技師であるスティーブンソン兄弟によって、日本に灯台技術を導入するための人材として選ばれ、わずか2カ月間の研修を経て派遣された。
明治維新直後にやってきた26歳のブラントンは、灯台建設予定地の調査と選定に精力的に取り組んだ。これと並行して居留地の道路建設や横浜での電信建設と鉄橋建設、実現しなかったものの上水道計画も手掛けている。まさに八面六臂の活躍ぶり。灯台ばかりでなく「日本の近代土木の父」なのだ。
灯台の計画にあたっては、むやみに数を増やすのではなく、「危険な場所は朝まで待つ」という柔軟な発想で、最も合理的で効果的な配置を提案したブラントン。今では通常の灯台と同様、夜間の航海を導く鍋島灯台は、彼の遺した「ドボクの心」を特徴的な赤と緑の光に込めて、今夜も瀬戸内海を照らしている。

水銀の入った容器(水銀槽)にライトを浮かせる構造。数100キロの重いレンズを小さなトルクで回すことができる。今は電動モーターだが、以前は吊り下げた分銅によって回転させていた。

灯台は近くのものと区別するために光り方と色の組み合わせをそれぞれ変えている。赤と緑の2色が交互に光る「不動赤緑互光」は珍しい。

ドームの上には「東西南北」の文字をデザインした風見鶏と、落雷から機器を守る避雷針が付いている。

レンズ台の銘板には、灯台技師スティーブンソン兄弟とスコットランドの首都エジンバラの名が記されている。創設時にレンズとともに輸入されたと見られる。


アクセス

通常は鍋島には入れないが、陸続きになった与島までは行くことができる。坂出駅から与島まではバスで約30分。

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