名建築のつくり方
異色の筒状タワーをどうつくった?
A アンサー 2. 鉄の板をつなぎ合わせてモノコック構造とした |
京都駅前のシンボル、「京都タワー」。ネーミングライツにより2024年4月から「ニデック京都タワー」となっている。開業したのは東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された1964年の12月。間もなく開業60周年を迎える。
京都タワービルはどのようにしてつくられたのか──。東京のシンボルである「東京タワー」に比べ、こちらは詳しく書こうとすると苦労する。なぜなら、建設時に激しい景観論争が起こり、主要な建築専門誌に掲載されていないからだ。例えば、建築専門誌の老舗『新建築』を調べても、施工終盤の1964年8月号に「京都タワー建設に抗議する」という投稿記事はあるが、完成してからの作品紹介は見当たらない。
京都タワーを設計したのは、建築家の山田守(1894〜1966年)だ。京都タワーと同じ1964年に完成した「日本武道館」を設計した人と言えば伝わりやすいだろうか。今では“ライブの聖地”となった日本武道館も、完成した当時の建築界の評価は芳しくなく、山田守は失意のなか、2年後の1966年に72歳で亡くなった。
いつもは複数の資料を参考に書いているこの原稿だが、今回は建築史家の大宮司勝弘氏らによる研究論文にほぼ準拠した内容となる。
着工直前にタワー案に変更
大宮司氏らが調べたところによると、1961年末までは、図面に記されているのは10層の箱型ビルだった。それが、着工まで約1年となった1962年に入って、ビルの上にタワーを載せる検討が始まる。当時は31mの高さ制限があったため、ギリギリの高さのビルを建て、その上に「工作物」として100mのタワーを載せる計画だ(全体高さは131m)。
国内のタワーに詳しい人は、ビルの上に載るタワーというと、「別府タワー」を思い浮かべるだろう。高さは、足下のビルを含めて100m。こちらはすでに1957年に完成していた。設計したのは、東京タワーや名古屋テレビ塔などを設計し、「塔博士」と呼ばれた内藤多仲(1886〜1970年)だ。
京都タワーも、内藤に相談すれば別府タワーと同じ方法で実現できそうだ。何しろ、当時の山田守の事務所では、内藤が構造顧問を務めていたのだから。
しかし、実際に京都タワーの構造設計を担当したのは、棚橋諒(1907〜1974年)だった。京都大学出身の構造学者・エンジニアで、1951年に京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた人として知られる。
実現したタワーの構造は、施主側からの打診で着工直前に参加した棚橋によって考案されたという。それは、内藤の“鉄骨鳥かご架構”とは全く違う「応力外皮構造」だった。円筒形の鋼板を溶接してつなぎ合わせたもので、今でいう「モノコック構造」だ。
タワーの塔身は、厚さ12〜22mmの円筒状鋼板でできており、下に行くほど徐々に厚みが増す。鋼板は平面で4分割され、高さ2.7mのものを23段積み上げて構成される。この構造形式により鉄骨量が節約され、タワーの重量は800トンに抑えられた。工期は1年10カ月だった。
大規模な展望塔では初の挑戦
こうした構造は、過去に火力発電所の煙突に使われて例はあったものの、これほどの規模の展望塔に採用されたのは初めてだった。
モノコック構造は、建築ではあまり見ないが、航空機やスポーツカーなどにはよく用いられる。骨組みで全体の強度や剛性を持たせるのではなく、外側のパネル全体で強度剛性をもたせることにより、無駄なく軽量化できる。ただし、構造計算は複雑で、コンピューターの普及していない1960年代初頭には大きなチャレンジだった。京都タワーでは、安全率を一般の建築物の2倍以上に想定して設計したという。
山田は、建設中の反対意見に対して反論などは行わず静観していたが、完成時に出た新聞の特集記事にこんな言葉を載せている。「私は45年間いろいろ設計してきたが、この建物が一番良くできたと思っています」(日刊建設産業新聞1964年12月25日付)。
参考文献・資料:
「山田守設計による京都タワービルの設計過程に関する研究」(大宮司勝弘、竹内淳、岩岡竜夫、岩田利枝)/日本建築学会計画系論文集第74巻第636号2009年2月、「ニデック京都タワー」公式サイト、「別府タワー」公式サイト
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