名建築のつくり方

名建築のつくり方
2023年3月号 No.546

銀ブラの人を驚かせた施工時の工夫は?

A アンサー    2. 途中階よりも屋上階の床を先行

三愛ドリームセンターの所有者であるリコーは、建物の老朽化を理由に、現ビルを建て替えることを発表した。工事期間は2023年3月から約2年間の予定だ。

完成年は1963年(昭和38年)。前東京五輪の前年だ。重要文化財となった国立代々木競技場(1964年竣工)よりも古い商業施設が、銀座のど真ん中で60年間現役であったのは奇跡といってもよいだろう。

設計したのは日建設計工務(現・日建設計)。設計チームの中心になったのは林昌二(1928~2011年)だ。完成時35歳。この建築で評価を高め、後に「パレスサイド・ビルディング」(1966年竣工)、「中野サンプラザ」(1973年竣工、2023年7月以降建て替え予定)などを実現する。

「誰もやっていない」に応える

三愛ドリームセンターは、リコーの創業者である市村清(実業家、1900~1968年)が、駆け出し時代の1946年に銀座4丁目に建てた三愛ビル(地上2階建て)を建て替えたものだ。すでに実業家として成功していた市村は、林に「世界に類のない、世の中の誰もやっていない」施設を要望する。

敷地は300㎡弱で、数字の「4」のような形だ。林によれば、設計当初は菱形の平面形だった。レンタル面積を考えればそれが順当。だが、林は「全然面白くもなんともない」「この敷地で実用価値を追い求めても駄目。宣伝価値のある建物をつくるしかない」と考え、広告塔とガラスの建築が一体化した「光の円筒」を市村に提案する。 市村はこのアイデアに乗った。

敷地が狭い難条件を克服

施工は竹中工務店が担当した。施工方法も大胆だった。何しろ敷地が狭く、作業ヤードがない。銀座のど真ん中という交通上の制約もある。そんな難条件を克服するために、施工者が林らと考えたつくり方はこうだ。

まず、中央の円筒コアと、4階までの床を建ち上げる。続いて、工場でつくったプレキャストコンクリートの部材を、地上4階レベルで円筒コアの周りに並べ、ケーブルでプレストレストを加えてドーナツ状の床をつくる。これを屋上まで吊り上げて固定。続いて9階の床を4階で製作し、吊り上げて固定……と、上から床が増えていく作業を繰り返した。

工事中の写真を見るとすごいインパクトだ。エレベーターなどが収まる中心部の円筒コアの周りに、レコードのようなコンクリート製円盤が何枚も重なっている。“五重の塔”に例えられたのも納得がいく。

初の網入り曲げガラスを採用

曲面ガラスの透明感も特筆すべきものだ。当初はフロート板ガラスを熱して曲面にしたものを全面に使う予定だった。ところが消防法が変わり、延焼の恐れのある部分のガラスは「網入り」にする必要が生じた。大判の曲面ガラスすら珍しい時代に、網入りガラスの曲げ加工はどこの会社が試みても破損してしまった。唯一、富山の新光硝子工業が試行錯誤の末に、世界初の網入り曲げガラスを実現。時間はかかったが、計250枚を現場に納入した。

オープニングも語り草だ。開業式は1963年1月13日の深夜。午前0時を告げるチャイムとともに、市村が点灯スイッチを入れる。すると、向かいの三越の屋上からビルの足元にスポットライトが当たる。地上のゴンドラには、ドラムをたたくフランキー堺の姿。ゴンドラは徐々に上へと吊り上げられ、それに合わせて、1フロアずつ内部の照明が点灯。ゴンドラが屋上に到達すると、屋上広告塔に巨大な「三菱」のマークがさん然と輝く。

開業式は前面道路を歩行者天国にして行われ、真夜中の銀座はお祭り騒ぎとなった。いろいろな意味で、時代を象徴する建築であった。

 

参考文献・資料:
『林昌二の仕事』(「林昌二の仕事」編集委員会、新建築社2008年)、イラスト名建築ぶらり旅 with 宮沢洋&ヘリテージビジネスラボ⑧三愛ドリームセンター(日建設計note2022年5月10日公開)

 

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