名建築のつくり方

名建築のつくり方
2022年5月 No.538

日本初の超高層が生んだクレーンの大革新とは?

A アンサー    2. セルフクライミング式タワークレーン

挑戦的な建築は、それまでにない技術を必要とする。日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」(1968年竣工、高さ147m、以下「霞が関ビル」)は、タワークレーンの飛躍的な進化をもたらした。

そもそも高層ビル建設における揚重(資材を上に運ぶ作業)は、どのように行われていたのか──。タワークレーンが登場する以前は、ほとんどが「デリック」だった。デリックは、軸になるマストからブームの先端にワイヤーが張られ、そのワイヤーをウインチで巻いたり送ったりして上げ下げするもの。これに対し、油圧シリンダーやワイヤーなどで直接ブームを上げ下げするのがクレーンだ。

デリックにはさまざまな種類があり、戦前の丸の内ビルヂング(1923年)では「ガイデリック」が、三井本館(1929年)では「三脚デリック」が用いられた。

タワークレーンが日本に導入されたのは1950年代前半。初期のタワークレーンは、タワー頂部からワイヤーを四方に張ってタワーを支えていた。自立するタワーを備えたタワークレーンは1960年代に入って開発された。だが、高さへの対応や揚重範囲などに課題があり、例えばホテルニューオータニ本館(1964年、高さ72m)の工事では、ガイデリックと三脚デリックが併用された。

クレーンとタワーを切り離す

霞が関ビルの設計者は、発注者でもある三井不動産と山下寿郎設計事務所(現・山下設計)。施工を担当したのは鹿島と三井建設だ。鹿島らは、このビルのために「セルフクライミング式タワークレーン」を開発し、導入した。

セルフクライミングというと、クレーンが階が増すごとに1層ずつ上がっていくように思うが、そうではない。ポイントは、旋回体(クレーン部)とマスト(タワー部)を分離した「2分割式」であることだ。旋回体を躯体に固定したまま、それを貫通してマストを迫り上げていくことができる。全体を同時にクライミングさせるのではなく、マストを躯体に固定することによって、上昇時の安定性や速度が向上した。現在の「フロアクライミング」に近い。

霞が関ビルでは、従来のガイデリックでは6日程度かかっていたクライミングが1日で終了した。建設過程全体では9回のクライミングを行った。

他にもさまざまな新技術

霞が関ビルで使用した鉄骨部材の総重量は1万5000t、ピース数は1万7000に及んだ。セルフクライミング式タワークレーン設置後は1日100tを基準として揚重作業を行った。

霞が関ビルのタワークレーンの揚重能力は200t・mだった。そのため、鉄骨のピースは1ピース6t以下になるように設計された。6tであれば、半径30mのブームを伸ばして揚重することが可能になる。

その後、タワークレーンの揚重能力は向上し、東京都庁舎(1990年)などバブル期には900t・mとなり、横浜ランドマークタワー(1993年)では1500t・mの超大型タワークレーンが使われた。

霞が関ビルでは、セルフクライミング式タワークレーンのほか、「自立重力擁壁工法(S・S・W工法)」、「大型厚肉H形鋼」、「ハニカムビーム」、「U型デッキプレート」など、さまざま新技術が導入された。鹿島守之助会長(当時)は霞が関ビルについて、「霞が関ビルのもつ歴史的な意義は『都市高層化への第一歩』ということには違いない。しかし、われわれは『超高層を最初につくった』ことだけでなく、これを『いかにつくったか』に、より多くの誇りを感じる」と記している。

参考文献・資料:
日本の高層建築における施工技術の変遷 第2回「揚重」(権藤智之、建築士2019年1月号)、KAJIMAダイジェスト2018年8月号特集「超高層50年」、産業リーシングWEBサイト

 

【冊子PDFはこちら

1 2

関連記事

しんこう-Webとは
バックナンバー
アンケート募集中
メールマガジン配信希望はこちら