かわいい土木
ハマを見守る 紅白の灯台兄弟
Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP 社刊、共著)
横浜港のシンボル「赤灯台」は、日本初の防波堤堤防だ。じつは、この灯台はかつて、相似形の「白灯台」と対を成していた。設計は、横浜に日本初の近代水道を敷設したことで知られるお雇い外国人パーマー。横浜港が国際貿易港としての一歩を踏み出すための築港計画を紹介する。

「あ、赤灯台だ!」。心の中でそう叫び、急いでカメラのシャッターを切った。それが、右ページの写真。今から4年前、国土交通省の舟運社会実験の取材で、横浜から都内へ向かう船に試乗させてもらったときのことだ。
横浜港に、明治時代につくられた「赤灯台」が現存することは、ずっと前から知っていた。すっかり忘れていたものの、写真も見たことがあったのだろう。ふいに眼前に現れたドボかわいい六角錐の灯台が、ひと目でそれだと気づいた。
だが、「横浜港のシンボル」と呼ばれるこの赤灯台が、かつては双子の兄弟のような「白灯台」と一対で港の安全を守っていたことは、まったく知らなかった。そう、この灯台兄弟の数奇な運命も、それが置かれた防波堤が港ヨコハマの基礎をつくった遺産であることも―。
赤灯台と対だった“幻の白灯台”
現在、赤灯台の周囲を見渡しても、本来そこにあるべき白灯台の姿はない。じつは、山下公園の横の氷川丸が係留されている桟橋の先端に、ひっそりと保存されているのだ。
赤灯台、白灯台の正式な名称はそれぞれ横浜北水堤灯台、横浜東水堤灯台という。水堤とは防波堤のこと。遠くから航海の目印となる沿岸灯台とは役割が異なり、港口を示すための「防波堤灯台」だ。
防波堤灯台の外壁の色や灯火の色は、国際ルールで決まっている。沖合から港に向かって「右側が塗色赤・灯色赤」「左側が塗色白・灯色緑」だ。横浜港は東京湾の西南に位置することから、北水堤に赤灯台が、東水堤に白灯台が設置された。
2基の灯台兄弟が完成したのは1896年(明治29年)。防波堤灯台としては日本初だった。赤灯台が125年後の今も現役で稼働している一方で、白灯台は早々に引退し、氷川丸の横に移設された。
その理由は、昭和の半ばに行われた横浜港の拡張工事の一環として、東水堤の大部分を取り込むように山下ふ頭が建設されたからだ。それ以降、白灯台のあった位置には、代役として緑の光を放つ灯浮標(ブイ)が浮かべられている。
▲125年にわたり横浜港の入口を示し続ける赤灯台。高さ15m。防波堤はコンクリートブロックを製造して積んだ。
オランダ対イギリス お雇い外国人の熱い戦い
灯台兄弟が向かい合って立っていた北と東の水堤は、日本の近代港湾のさきがけ、「横浜築港計画」によって建設されたものだ。
幕末の日米修好通商条約によって開港して以来、横浜の発展はめざましく、国際貿易港にふさわしい施設が求められていた。明治初期にはまだ大型船の停泊できる桟橋もなく、沖合に停泊した船から「はしけ」で荷役していたからだ。
ここで活躍するのが、近代的なインフラを整備するために招かれた「お雇い外国人技師」たち。砂防堰堤などで知られるオランダ人技師デ・レーケと、日本初の上水道を横浜につくったイギリス人技師パーマーが、計画案を競い合った。
山県有朋や大隈重信ら新政府の立役者たちが大揉めし、最終的にパーマー案を採用することに決定。その内容は、大防波堤を築造し、内側を浚渫するとともに大桟橋を建設し、大型船から直接、乗り降りできるようにするものだった。
こうして1896年(明治29年)に、全長1829mの北水堤と全長1640mの東水堤、赤白2基の鉄製灯台、鉄製の大桟橋が完成。このとき新設された大桟橋は、現在の横浜港大さん橋国際客船ターミナルの前身である。工事を監督したパーマーは病気のため途中で亡くなり、内務省技師の石黒五十二が後を引き継いだ。
この工事を皮切りに、「新港埠頭」をはじめ本格的な埠頭を続々と建設するなど、横浜港は近代港湾としての歩みを着実に進めていった。
被災しても折られても兄弟へ健気にエール
1世紀以上にわたり、横浜港の変遷を見守り続けてきた灯台兄弟。だが、その年月は、決して順風満帆ではなかった。
明治30年代に台風で、また1923年(大正12年)には関東大震災で被災。特に震災では、両水堤の灯台の立つ開口部付近、あわせて1300mが水没した。その後、鉄造だった灯台の基礎部分が鉄筋コンクリート造に改築された。
さらに、白灯台は復旧から35年後の1958年(昭和33年)4月、またしても受難に見舞われる。横浜港を出航したイギリスの客船カロニア号が、米軍艦との接触を避けようと急旋回して東水堤に激突、白灯台をなぎ倒したのだ。事故直後の写真には、ボッキリ折れて頭部を海中に突っ込んでいる白灯台が写っており、とても痛々しい。
今では化粧直しを施されて往時の雄姿を取り戻し、安全な場所で余生を送る白灯台。そこからは、港口の水面に立つ赤灯台がよく見える。その姿は、共に苦難に耐え、今なお現役でふんばる兄弟へエールを送っているかのようだった。


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