かわいい土木

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2019年7・8月号 No.510

木製トラスの大吊橋は 電力王の夢の跡

妻籠つまご三留野みどの、中山道の二つの宿場町を抱える長野県の南木曽なぎそ町。ここに、木曽川の水力発電開発を主導した電力王・福沢桃介が自らの名をつけた「桃介橋」がある。発電所建設の資材を運ぶトロッコ軌道を渡すために架けられた橋だ。日本の産業発展には水力発電しかないと信じた桃介の情熱と夢の跡をたどる。

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


うだるような午後、JR南木曽駅に降り立った。木曽川沿いを少し歩くと、遮るものもなく日差しを浴びる大きな吊橋が見える。1922年(大正11年)、木曽川に架けられた桃介橋だ。

吊橋は、塔の上に張り渡したケーブルで桁を吊り下げる構造なので、桁が変形しないようにがっちり硬くつくる必要がある。吊橋の桁が「補剛ほこう桁」と呼ばれるのはこのためだ。桃介橋の形式は、木材をトラス状に組んで桁の剛性を高めた「木製補剛吊橋」だ。

全長は247m。日本に現存するこのタイプの橋では最も長く、そして古い。主塔は上部がコンクリート製、下部が石積み。アーチ型にくり抜いた主塔と木製トラスの桁の組み合わせがシックだ。主塔から伸びたケーブルが優美な曲線を描いている。

▲桃介橋の主塔と木製補剛桁(トラス)。主塔はアーチ型のくり抜きが重なるドボかわいいデザイン。

 

自らの名前を冠した発電所建設用の橋

「桃介橋」という名前は、なんだかちょっとかわいらしい。おとぎ話にでも出てきそうだ。名付けたのは、鬼才と呼ばれ、“電力王”として知られる福沢桃介。自分の名をそのまま付けるのはさすがに少しはばかられたのか、当初は「桃之橋もものはし」と言っていたのが、いつしか桃介橋と呼ばれるようになったという。

桃介が生まれたのは1868年(明治元年)。幼少の頃から神童と呼ばれ、慶應義塾へ進学した。長身で、今でいう大変なイケメンだったこともあって、福沢諭吉の娘婿としてスカウトされた桃介は、アメリカ留学を条件としてこの話を承諾。帰国後に諭吉の次女ふさと結婚した。

その後、肺結核の療養中に株式投資で儲けた金を元手に、会社勤めを辞めて実業界へ転身。電力会社を設立し、木曽川の水力開発に乗り出した。1919年(大正8年)に竣工した賤母しずも発電所を皮切りに、4年間に大桑、須原、桃山の4発電所を建設。そのつど、木曽川に資材運搬用の橋を架け、会社の幹部や功労者の名前を付けていった。

こうした一連の発電所建設の集大成となったのが、約4万kWの発電能力をもち、関西地方まで200km以上の長距離送電を行う読書よみかき発電所だ。桃介はこの発電所のための橋に、満を持して自分の名を付けたのだった。

 

▲3本のうち中央の主塔(画面では左側)には中洲へ下りる階段が付いている。主塔の側面にこのための開口部を設けたことが、構造上の弱点になってしまったという。そうだとしても、橋の真ん中から階段を下りて行けるのは楽しい。

原物保存が慎重に議論され往時の姿が蘇る

発電所工事が終わった後、桃介橋は現在の南木曽町に移管され、生活橋として使われた。しかし、桁を押さえるワイヤーが洪水によって切れ、1978年以降は通行禁止になったまま荒れ果てていた。

町は92年、日本の水力発電の歴史を物語る桃介橋を文化財として修復・復元することを決定。特別委員会による綿密な調査を踏まえて、その方法を検討した。

桃介橋は、中央の主塔に中洲へ下りる階段が設置されていることが大きな特徴だ。見た目はドボかわいい階段だが、そこへの開口部を主塔の側面に設けたことが、構造上の弱点になっていた。

現在の設計基準に合わせて主塔を補強するか、あるいは通行できる人数を制限するか。検討の結果、文化財としての「原物保存」の観点から、人数制限の案が採用された。 また、主ケーブルは内部まで腐食が進行していたことから、安全上、すべて新しいものに取り替えることになった。ここでも原物保存が議論されたが、ケーブルを取り替えることで、固定するアンカーや主塔頂部のサドルなどのパーツはそのまま利用でき、全体としてより原型が遺せると判断された。

こうして93年に修復・復元工事を終えた桃介橋は、翌年に国の重要文化財に指定され、今も往時の威容を保っている。

桃介の事業を支えたパートナー、マダム貞奴

木曽川に全部で7カ所の水力発電所を築いた福沢桃介。この大事業を心身ともに支えたのが、日本人初の女優「マダム貞奴」としてヨーロッパにも名を馳せた川上貞だった。オッペケペー節で人気を博した夫・川上音二郎と死別した後、旧知の桃介に請われて行動を共にした。

二人は桃介橋の近くに別荘「大洞おおぼら荘」を建てて一緒に暮らし、ここを拠点にして発電所の建設現場へ足繁く通ったという。工事関係の要人の応接には、芸者出身の貞が采配を振るった。桃介はこの別荘の窓から、桃介橋や読書発電所を眺めるのが好きだったという。

事業完遂後、貞は桃介をふさ夫人のもとへ帰らせたが、ふさは夫を許さなかった。同じ敷地の別棟で寂しく最期を迎えた桃介、享年70歳。桃介橋は、日本の水力開発の記念碑であると同時に、稀代の電力王の夢の跡でもある。

▲桃介が貞と暮らした大洞荘。現在は福沢桃介記念館として公開されている。

 

▲橋の床版には一部、創建当時のトロッコ軌道が保存されている。
 

▲福沢桃介のレリーフ。桃介は才能とともに眉目秀麗なことでも有名だった。

■アクセス
JR中央本線南木曽駅から徒歩約5分。車の場合、中津川ICから30分、妻籠宿から5分程度。
 

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