かわいい土木
八戸港を見守る白亜の灯台
Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木技術者になるには』(ぺりかん社)、本連載をまとめた『かわいい土木 見つけ旅』(技術評論社)
青森県南部の太平洋沿岸に、鮫角灯台という美しい灯台が建っている。三陸復興国立公園に含まれる風光明媚な種差海岸を見渡す絶好のロケーションだ。鮫角灯台の誕生には、江戸から続く漁港であった八戸港の発展の足跡が深く関わっていた。
「鮫」という珍しい名前のJR八戸線の駅から、「うみねこ号」という素敵な名前の遊覧バスに乗る。ウミネコの繁殖地として知られる蕪島の横を通り、コロナ禍で閉館したホテルのバス停で下車。海へ向かって歩くとすぐ、青い空と青い海を背景に、端正な白亜の灯台が現れた。一般からの投票で選ばれた「日本の灯台50選」の一つ、鮫角灯台だ。
灯台の高さは22.73m。丘の上に建っているため、海面から灯火までの高さは57.60mに及び、発する光は約37km先まで届くという。眼下に、海岸のきわを通る八戸線の線路が見える。その先は太平洋。国の名勝・種差海岸を一望できる。
春から秋の土日・祝日は一般開放され、人気のスポットとなっている(2023年は5月3日〜10月22日。開放状況は八戸市のホームページを参照)。
アーチ型の入口には、右から「鮫角燈臺 初照 昭和十三年二月十六日」と書かれた銘板が掲げられている。初照とは、灯台が初めて点灯された日のこと。第二次世界大戦の空襲で被災し消灯していた一時期を除き、85年後の今日まで、沖合を照らし続けている。緑青だろうか、うっすら緑色がかった銘板の旧字体が、年月の長さを感じさせる。
▲灯台から太平洋を見る。波打ち際に、八戸線の線路が通っている。
▲海岸側から見上げた鮫角灯台。鮫浦を形成した段丘上に建っている。
江戸時代から続く天然の港が近代港湾に生まれ変わった
鮫角灯台は八戸港に出入りする船の目印として、長年にわたる地元の強い請願によって建設された。
八戸港のある場所は、古くから「鮫浦」と呼ばれる漁港であり、海が時化たときの避難港でもあった。地図を見ると、鮫角灯台の立つ場所は岬のように飛び出している。この東南側一帯の丘陵地に潮流がぶつかって北西側が湾形となり、水深の深い天然の港が形成された。
江戸時代前期の寛文11年(1671年)に、東北と江戸を結ぶ東廻り航路が拓かれると、鮫浦は年貢米や物資を運ぶ船の寄港地として賑わった。
明治時代になり、地元の実業家・浦山太吉は、近代的な港の整備を求めて各界に働きかける。これを受けて、内務省のお雇い外国人技師・ムルデルが測量を行い、築港計画を作成した。だが、この計画は実現せず、明治24年(1891年)に東北本線が開通すると、鉄道が物資輸送の主役となり、鮫浦は寂れてしまう。
状況が変わったのは3年後のこと。八戸駅から支線が引かれて港近くに駅ができたのだ。これにより、青森から岩手にかけての沿岸部の物流は再び海運が主となり、鮫浦がその拠点として返り咲いた。
その後、大正8年(1919年)に漁港として防波堤や魚市場などの整備が始まる。このとき、関連施設の一つとして昭和12年(1937年)に建設されたのが、鮫角灯台だ。漁港工事に次いで、昭和7年(1932年)からは商業港として防波堤の延長や3000トン級の汽船が接岸できる岸壁、荷物の積み下ろしを行う物揚場などの整備も進んだ。
こうして近代港湾に生まれ変わった鮫浦は、八戸港と呼ばれるようになり、昭和10年(1935年)には国の重要港湾に指定された。後背地にはセメント工場や化学工場ができ、工業港としても重視され、さらなる拡張工事も始まった。
ところが太平洋戦争が始まると、工事の資材が海軍の特攻用小船艇基地の建設に転用され、八戸港の拡張は中断。終戦後には、食糧難を克服するための肥料や輸出用化学繊維の原料を輸送するために、八戸港の整備が急ピッチで進められた。平成時代の初期には、東北で初めての国際航路が開設され、現在も日本有数の漁港、工業港、国際貿易港として名を馳せる。物言わぬ鮫角灯台は、こうした八戸港の変遷を、今日も静かに見守っている。
▲青い空に映える鮫角灯台。春から夏の週末や祝日には一般公開される人気スポットだ。
▲三角の窓枠や風向風速計がかわいい。
▲入口に掲げられた風格のある銘板。
▲2階展示室に、取り外された以前のフレネルレンズが展示されている。
▲灯台内部には、塔頂部まで螺旋(らせん)階段が続く
●アクセス
JR八戸線鮫駅前から種差海岸遊覧バス「うみねこ号」に乗り、シーガルホテル前で下車してすぐ。または駅からタクシーで約5分。
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