かわいい土木

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2023年4月号 No.547

渋沢翁も支援した飛鳥山をつなぐ橋

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木技術者になるには』(ぺりかん社)、本連載をまとめた『かわいい土木 見つけ旅』(技術評論社)


江戸時代から風光明媚な行楽地として人気だった東京都北区王子の飛鳥山あすかやま。実業家・渋沢栄一が製紙工場やその関連企業を設立し、別邸を構えていたことでも知られる。美しい3連アーチの「音無橋おとなしばし」の歴史をひもとくと、明治から昭和初期にかけて、王子がどれほど重要な軍事・工業の拠点であったかが分かる。

「お札がうまれる街 東京都北区。」。JR王子駅中央口を出てすぐのところに、そんなキャッチコピーを大書した看板が掲げられている。なんだか、このまちに足を踏み入れただけで、金運が急上昇しそうだ。“日本の資本主義の父”と呼ばれる実業家・渋沢栄一の肖像を添えた巨大1万円札のイラストも添えられている。

▲王子駅前で見かけた看板。

この看板は、2024年度に渋沢翁の図柄の新紙幣が発行されるのを受け、北区と渋沢の関係団体が、公民連携で進めるイメージアッププロジェクトの一環として作成したものだという。そう、王子は渋沢ゆかりの地。晩年の翁は、駅前に広がる「飛鳥山」に別邸を構え、ここを活動の拠点とした。

すけすけのスパンドレルが
軽快でドボかわいい

王子は、武蔵野台地の北東端に位置する。飛鳥山の東側はすぐ、荒川のつくり出した東京低地となり、北側には深い谷がある。この谷は、東京西部の小平から武蔵野台地を東へ流れてきた石神井しゃくじい川が、低地へ流れ落ちる箇所に刻んだもの。

1930年(昭和5年)、谷で分断されていた飛鳥山と対岸をつなぐために石神井川に架けられたのが「音無橋」だ。

音無橋は橋長50m、形式は鉄筋コンクリート3径間上路開腹けいかんじょうろかいふくアーチ橋。「径間」は柱と柱の間のこと、「上路」はアーチの上に路面があること、「開腹」は路面とアーチの間に隙間を設けてあることで、「オープンスパンドレル」ともいう。当時、鉄筋コンクリートの橋は技術的にあまり長くできなかったが、隙間を開けて自重を軽くすることで、長い橋を架けられるようになった。

▲音無橋の全景。下を流れる石神井川は流路が変えられ、現在は飛鳥山をトンネルで貫通している。
旧流路は「音無親水公園」として整備されている。

音無橋の中央径間の大きなアーチを真下から見上げると、どっしりとしたコンクリートが迫力満点。けれども横から見ると、小・大・小と3つ並んだアーチがリズミカルだ。全体に軽やかでドボかわいい雰囲気があるのは、すけすけのスパンドレルの効果だろう。

▲音無橋のスパンドレル。コンクリートが少なく、軽やかな印象だ

設計者は増田じゅん。明治から大正にかけて約15年間もアメリカで橋梁設計を学び、帰国後は民間の橋梁設計事務所を開設して、全国の著名な橋を設計したすごい人だ。

関東大震災後の復興事業では、都心部の橋は、景観を重視して美しいアーチ橋が多く架けられた。例えば、東京・御茶ノ水の聖橋(かわいい土木第37回)もその一つ。

音無橋は同じ頃に建設されたものの、当時の王子町は東京市に含まれていなかったためか、復興橋梁には位置づけられていない。それでも増田のように著名な設計者に設計を託し、こうした美しい橋を架けたのはなぜだろうか。

それは、ここが「特別な場所」だったからに違いない。

熊野に見立てた王子の地形
「山は飛鳥、川は音無」

鎌倉時代後期、領主の豊島氏は紀伊熊野から王子権現ごんげんと飛鳥明神みょうじん勧請かんじょうした。同時に、村の名は王子、飛鳥明神が置かれた山は飛鳥山、そして王子権現と飛鳥明神の間の谷を流れる石神井川は「音無川」と名付けられた。あたり一帯を熊野になぞらえたわけだ。

江戸時代には8代将軍吉宗の命で飛鳥山に桜が植えられ、谷沿いに料亭が並ぶ一大行楽地となった。滝や紅葉に彩られた渓谷は景勝の地として、広重ひろしげの浮世絵にも多く描かれている。そして、いつしか石神井川は音無川ではなく、「滝野川」と呼ばれるようになっていた。

ところが幕末になると、飛鳥山のふもとには、鉄を溶かす反射炉はんしゃろが建てられた。大砲製造のためだ。動力には、南西の西巣鴨から千川上水の水を引き込み、水車を回した。石神井川が近く、材料や製品を舟で輸送するのにも便利だった。

だが、ほどなく明治維新で幕府は倒れ、反射炉の跡地には紡績工場が建設された。渋沢栄一も、千川上水の水を利用して抄紙会社を設立し、周辺には関連会社を置いた。製紙工場ができたことで、紙幣を印刷する大蔵省印刷局もこの地につくられた。このときから、王子は“お札がうまれる街”になったのだ。

明治半ばの1883年に高崎線の上野・熊谷間が開通して王子駅ができると、火薬や肥料などを製造する軍需工場が建設され、工業が発達。1911年には王子電気軌道の路面電車が営業を開始し、工員たちの住宅も増えていった。

明治・大正・昭和初期と、王子が東京郊外屈指の軍都・工業地帯として発展するにつれ、石神井川の渓谷が交通の妨げとなった。橋さえあれば、谷を挟んで向かい合う王子町と滝野川町を行き来しやすくなる。こうして、橋の建設が計画された。経済界の立役者であった渋沢もこれを支援したという。

完成した橋の名は、下を流れる石神井川の通称「滝野川」から取って「滝野橋」となってもおかしくなかった。しかし、誰の計らいか、いにしえの「山は飛鳥、川は音無」にちなみ「音無橋」と命名された。音無橋の架かる渓谷には、王子のたどった歴史が刻み込まれている。

▲飛鳥山から見た音無橋(斜め左の道路)。
その下が石神井川の旧流路である音無親水公園で、画面右奥に王子権現がある。

▲音無橋の建設当初の状況。
石神井川(音無川)は飛鳥山のふもとを回り込み、王子権現のある対岸の王子町側と隔たっていた。

 

●アクセス

JR京浜東北線、東京メトロ南北線、都電荒川線の王子駅から徒歩約3分

 
 

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