かわいい土木
時代の熱気を刻む繭市場・本庄の橋

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木技術者になるには』(ぺりかん社)、本連載をまとめた『かわいい土木 見つけ旅』(技術評論社)
かつて北関東は養蚕の主要産地だった。その一大集散地となったのが、埼玉県本庄市だ。蚕種製造が盛んであった群馬県伊勢崎市と本庄を結ぶ「伊勢崎道」の二つの橋が、明治・大正の本庄の活気を今に伝えている。
昨年の春、まち歩きイベントでときどきお会いするYさんから、「かわドボ目撃情報」が寄せられた。「先日埼玉県本庄市を歩いたとき、寺坂橋と賀美橋を見ました。かわいい土木でした!」と。こういう情報提供は本当にありがたい。
どちらの橋も、国の登録有形文化財のようだ。寺坂橋は1889年(明治22年)築造の石造アーチ橋、賀美橋は1926年(大正15年)の鉄筋コンクリート桁橋。Yさんの送ってくれた写真では、どちらも古くて小さくてかわいらしい。特に、アール・デコっぽい装飾が施された賀美橋は、私の超タイプではないですか!
昨年の12月末、満を持して見に行った。
▲賀美橋の横顔。高欄の小さなアーチが白タイルで縁取られている
明治・大正それぞれの
時代を映す二つの橋
本庄は、江戸時代に栄えた中山道の宿場町。北側には「関東で一番大きな川」を意味する「坂東太郎」こと利根川が流れている。東京・新宿から本庄まで、1時間45分くらいで着ける。駅から歩くこと約15分、特徴的な三角屋根の親柱が見えてきた。賀美橋だ。
端正な四角柱の親柱4本に、それぞれ小さな屋根が載っている。よく見るとこの屋根、不思議な形状だ。切妻が直角に交差したようなこのスタイル、神社などに見られる「乗り越し屋根」に近いかもしれない。直交する棟の中心から、照明塔が立ち上がっている。ランプシェードはゴブレット(脚付き杯)型だ。高欄には小さなアーチが並び、白いタイルで縁取られている。うーん、おしゃれ。
▲親柱の屋根の下の水平材にも、タイルが貼ってあったような跡がある
賀美橋から小川沿いに100m弱、1分ほど歩いて寺坂橋に着いた。橋長7.5mの小さな石橋だが、なかなか風格がある。現役で使用されている道路橋では、埼玉県内で最古という。計算すると、今年で架橋から137年目。すごい!
しかし、今でこそ古びて見えるこの橋も、当時の本庄の人たちにとっては、初めて目にする珍しい橋であったろう。というのも日本では、江戸時代までの橋はほぼ木橋で、石橋は中国の技術を取り入れた沖縄や九州以外では、ほとんどつくられていなかったからだ。
繭の集散地・本庄と
蚕種製造の伊勢崎の縁
二つの橋がごく近くに架かっているのはいずれも、本庄と利根川対岸に位置する群馬県伊勢崎市を結ぶ「伊勢崎道」の旧道と新道の橋だからだ。じつは、この伊勢崎道こそ、日本の近代化を語る上で欠かせない、ある重要な役割を果たしていたのである。
キーワードは「養蚕」だ。江戸時代の末頃、中山道本庄宿は周辺地域から集まってきた繭や生糸の市場として賑わっていた。蚕種(カイコの卵)製造が盛んだった伊勢崎からも利根川を渡り、伊勢崎道を通って本庄宿へ蚕種が運ばれた。
明治時代になり、1872年(明治5年)に官営富岡製糸場が開設すると、本庄には原料繭の買い付け所が置かれた。さらに、1883年(明治16年)に日本鉄道(現在のJR高崎線)の上野・熊谷間が開通し、本庄の繭市場は最盛期を迎える。開国によって最重要な輸出品となった蚕種や生糸を上野経由で横浜港まで運んだのだ。旧伊勢崎道を横切る元小山川に寺坂橋が架けられたのは、ちょうどこの頃だ。
▲寺坂橋。かつては親柱と中柱、高欄も石造だったという。アーチ両側の付け根の「輪石」に五角形の切石が使われている。橋長7.5m、幅員3.5mの石積単アーチ橋
一方、賀美橋が架けられたのは、大正末期に伊勢崎新道が建設されたときだ。旧伊勢崎道は道幅が狭くて曲がりくねり、しかも急坂がある。大きな荷車や新たに台頭しつつあった自動車での輸送には不都合だった。また、利根川には渡し船のほかは、仮設の木橋が架かるのみ。増大する生糸や織物の輸送に対応できなくなっていた。そこで新たに整備されたのが、利根川の坂東大橋(初代)を含む伊勢崎新道だった。
▲賀美橋の上部構造のデザインは幾何学的で、この時代に世界中で流行したアール・デコを思わせる。橋長6.3m、幅員9.0mの鉄筋コンクリート造単桁橋
二つの橋には、日本の近代化の歩みを経済面で支えた養蚕業の歴史と、繭取引に湧いた本庄の熱気が刻まれている。
●アクセス
JR高崎線本庄駅から徒歩約15分
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