かわいい土木
インクラインをくぐるらせん状トンネル
Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木技術者になるには』(ぺりかん社刊、2022.4発刊)
明治時代に建設された琵琶湖疏水。高低差の大きい個所に、舟を台車で引き上げるインクラインがつくられた。その基礎となる土手をくぐる歩行者用トンネルが「ねじりまんぽ」だ。ドボかわいい名前と不思議な構造を持つまんぽの誕生には、ビッグプロジェクトにおける繊細な心配りが秘められていた。
アーチ天井のレンガの向きが、奥へ向かって渦を巻くようにねじれている。上を見ながら歩いていくと、異世界へ吸い込まれていきそうだ。
渦巻くように積まれた赤レンガの「まんぽ」
京都市の蹴上駅近くにある蹴上トンネルは、名刹・南禅寺へ向かう歩行者用の道路トンネルで、「ねじりまんぽ」と呼ばれる特殊な構造をもつ。
「ねじり」は分かるが、「まんぽ」って何?ネットで検索してみると、鉱山の坑道を表す「まぶ」が訛ったもので、「京都や滋賀の方言で小さいトンネルのこと」だという。「まんぼ」と呼ぶ地方もあるらしい。ウ〜、マンボ!(違う)
要するに「ねじりまんぽ」は「ねじった小さいトンネル」のことだ。蹴上のねじりまんぽはサイズ感といい、渦巻くレンガといい、アーチ下の側壁にも小さなアーチが配された内部のデザインといい、どこをとっても美しく、ドボかわいい。斜めになったレンガの端部の処理など、細部のつくりもていねいで、設計した人、施工した人の愛が感じられる。
▲ねじりまんぽの三条通側の坑口。扁額の上下にはレンガをノコギリ状に積んだ装飾「デンティル」が配されている。
ねじれる理由は交差角度にあり
ねじりまんぽはここだけでなく、新潟県から福岡県にかけて各地に25カ所ほどあり、大半が関西に集中している。明治時代初期から大正時代にかけて、全国に鉄道が敷設された時期につくられた。
それにしても、ねじりまんぽはなぜ「ねじれていなければならない」のか。それには明快な理由があった。
「まんぽはトンネル」と書いたが、じつは「アーチ橋」でもある。というのは、鉄道線路と道路などが交差する個所に設け、鉄道はアーチ橋の上を通し、道路は下をくぐらせる構造だからだ。
このとき、両者が直交せず斜めに交差している場合、下をくぐる道路に合わせて水平にレンガを積むと、橋に掛かる力が全体に伝わらない。このため、上を通る線路と直角になるようにレンガを積み、強度を確保する。その結果、下の道路から見ると、アーチがねじれてしまうのだ。
▲右はねじりまんぽの内部。側壁との接続部を見ると、レンガが斜めに積まれているのがよく分かる。
側壁に並んだ小さなアーチもドボかわいい。左は琵琶湖疏水を指揮した田辺朔郎の銅像。
疏水の高低差を乗り越える世界最長のインクライン
蹴上のねじりまんぽの上を通っているのは普通の鉄道ではなく、琵琶湖疏水を通る舟を台車に乗せて運ぶためのインクライン(傾斜鉄道)だ。
琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都市内へ引き込むための水路で、1890(明治23)年に第一疏水が完成。建設当初は舟運路としての役割も担っていたものの、蹴上付近は水路の高低差が大きく、そのままでは舟が乗り越えられない。
そこで、蹴上船溜から下流の南禅寺船溜まで、全長約582mに及ぶインクラインを敷設。旅客や荷物を舟に載せたまま陸送して約36mの高低差を乗り越えさせた。インクラインとしては、当時世界最長だったという。
このとき、インクラインを一定の勾配にするために大規模な土手が築かれた。その土手の下をくぐるのが、ねじりまんぽだ。そこから南禅寺へ続く小径とともに、疏水建設の一環として計画された。
インクラインの土手は、京都市内を東西につなぐ三条通(東海道)に沿って設計されたため、土手によって地域が分断されることになる。そこで、ねじりまんぽと小径をつくり、三条通から南禅寺方面へ歩いて行けるように配慮したのだ。
132年たった今、ねじりまんぽに続く小径は、塔頭の塀越しにせせらぎの音が聞こえ、庭園の木々が覗く心地よい遊歩道になっている。
▲インクラインの廃線跡。下流へ向けて急勾配で下がっているのが分かる。
▲小径側から見たねじりまんぽとインクラインの土手。
▲復元されたインクラインの台車。琵琶湖疏水の水力発電で巻き揚げ機を動かした。
壮大な疏水プロジェクトにきめ細やかな心遣い
ねじりまんぽの両側の坑口にはそれぞれ、「雄観奇想」、「陽気発処」と書かれた扁額が掲げられている。雄観奇想は「みごとな景観、すごい発想」、陽気発処は「精神を集中すればどんな困難にも打ち勝てる」といった意味だ。揮毫は、当時の京都府知事・北垣国道によるもの。
琵琶湖疏水は、明治になり首都が東京へ移って寂れた京都の復興を掲げて北垣が計画し、若き土木技術者・田辺朔郎に指揮を託した一大プロジェクトだった。琵琶湖の水を引くことは、江戸時代からの京都の悲願でもあった。
しかし、10km近いルートの途中には山を貫通する大トンネルを掘る必要があり、工事は難航を極めた。この扁額には、前例のない難工事を成し遂げた関係者たちの気概が込められている。
一方で、ねじりまんぽや小径の存在から感じるのは、殖産興業を推し進める疏水計画の中に、人間重視のきめ細やかな心遣いがあったことだ。琵琶湖疏水が京都の人々に愛され続ける理由の一つは、きっとこんなところにもあるのだろう。
●アクセス
地下鉄東西線蹴上駅から徒歩2〜3分
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