かわいい土木

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2021年9月 No.531

時代の価値観を受け止める名橋

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


明治の終わりに、日本の近代化の象徴として、西洋風の石橋に架け替えられた日本橋。前回の東京オリンピックの頃には、頭上を首都高速道路の高架橋に覆われた。そして今、首都高を地下化して高架橋を撤去する工事がスタート。110年にわたり時代の価値観を受け入れてきた日本橋が愛おしい。

頭上の首都高速道路を見上げながら、どっしりとした石の欄干に沿って日本橋の歩道を進む。麒麟きりんの彫刻を設えた中央の照明塔が、上下線2本の高架橋の間を割くように空を指している。川の中に立ち並ぶ高架橋の橋脚。川面は高架橋の桁の裏側を水鏡に映し出す。

「日本橋」の地名は全国的に知られているが、その名の由来となった橋がどんな姿をしているか、すぐに思い浮かべられる人は意外と少ないかもしれない。

現在の日本橋は、今からちょうど110年前の1911年(明治44年)に架けられた。花崗岩を積み上げ、アーチを二つ連続させたルネッサンス様式の「石造二連アーチ橋」だ。パリの橋をお手本にしたと言われるだけあって、橋自体も重厚なら、彫刻などの装飾も芸術的で優美だ。

幻に終わった「江戸の名物」案

じつは、日本橋のデザインは、今のものに決まる前、別の設計案で検討が進んでいた。そのコンセプトは、いわば「江戸へのオマージュ」。欄干の柱に擬宝珠ぎぼし(橋の親柱の上に被せる飾り)を載せたり、テラスを張り出して徳川家康と太田道灌の銅像を配置したり、という案だった。

この場所に初めて日本橋が架けられたのは、家康が江戸に幕府を開いた1603年。それ以降、東海道を始めとする五街道の起点となり、同時に一帯は魚河岸や問屋が軒を連ねる江戸随一の繁華街として賑わうようになった。

明治時代になり、1902年に東京市は老朽化した木造の橋を近代的な石橋に架け替えることを決定。このときの方針が、実用性だけでなく「江戸の名物」として美術的な工事をなすべし、というものだった。家康や道灌は、往時の日本橋を象徴するアイコンだったのだ。

ところが、これに異を唱えたのが、日露戦争後に新たに日本橋の設計担当となった東京市技師長の日下部辨二郎、橋梁課長の樺島正義、技師の米元晋一、そして建築家の妻木頼黄よりなかの4人だ。ルネッサンス様式の石橋には似合わない、として家康・道灌の銅像は廃案に。代わりに、麒麟や獅子の彫刻を添えることで“和”のテイストを表現した。

明治もすでに40年が過ぎ、日本が近代国家として歩むなかで、今さら江戸の開祖でもなかろう、というのが時代の気分だったのかもしれない。

▲日本橋とその頭上を通る首都高速道路。上下線の高架橋が橋の照明塔を避けるアクロバティックな景観も魅力。

日本橋上空に首都高が建設されたのはなぜ?

時は流れ、1963年(昭和38年)。首都高が日本橋の上空を覆った。前回の東京オリンピックの前年のことだ。ただし、よく言われるように、五輪に間に合わせるために用地買収の不要な河川を利用したというわけではない。五輪開催が決定したのは1959年だが、当時の建設省はその2年前に、高速道路用地として運河や河川を活用する方針を示していた。日本橋の下を流れる日本橋川も対象となり、当初は川を埋め立てて高速道路を建設する計画が進んでいた。

その頃の東京都心の川は汚れて臭かった。私自身、幼児だった60年代後半に、神田川の濁った水面にボコッボコッと泡が上がってくるのを見た記憶がある。今のように水辺を楽しむ雰囲気はなく、むしろ臭いものにはフタとばかりに、川の暗渠化や埋め立てが歓迎された時代だ。

ちなみに、埋め立てた川床に建設する予定だった高速道路が高架に変更されたのは、1958年に発生した狩野川台風がきっかけだった。東京で30万戸が浸水する被害を受け、排水路として日本橋川を残すべき、という声が高まったのだ。こうして、川の中に橋脚を立て、高架化する形で首都高が建設された。ビルの谷間に高架の曲線が生み出す近未来的な景観は、人々に好意的に迎えられたようだ。

しかし、1980年代になるとこの景観は、高架橋が名橋・日本橋を覆い隠していると批判されるようになる。これもまた時代、ということだろう。

▲橋詰広場から見た日本橋。樺島正義ら土木技術者と建築家の妻木頼黄が力を合わせて設計した花崗岩による石造二連アーチ橋。
1999年に国の重要文化財に指定された。

今しか見られない首都高とセットの日本橋

そして今、首都高を地下化する工事が始まった。神田橋ジャンクションと江戸橋ジャンクションの間に新たに地下トンネルを掘り、高架橋を撤去するものだ。予定では2040年に、日本橋の頭上に青空が戻る。

高度成長期に育った私は、日本橋と首都高のイメージギャップが生み出すシュールな景観が大好きだ。今のうちに心に焼き付けておきたい、と思う。

けれど一方で、明るい日差しの下に輝く日本橋の雄姿も見てみたい。どちらも、時代の価値観を体現する“景”であることは間違いないから。

▲親柱の「日本橋」の揮毫きごうは、最後の将軍・徳川慶喜によるもの。

▲東京都(旧東京市)の紋章を抱えた獅子の彫刻。

▲首都高の地下化へ向け、江戸橋出入口の撤去工事が始まっている。

 
■アクセス
東京メトロ日本橋駅、三越前駅からともに約300m。
 

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