連載

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2017年6月号 No.489

かわいい土木 数奇な運命たどった繊細なレースのトラス橋

スケールの大きな土木構造物も、どこかにかわいらしさがある。意匠的にチャーミングであることはもちろん、その機能や歴史に踏み込むと、困難に耐えて大地に根を下ろす健気さまで見えてくる。今回取り上げるのは、名古屋で歩行者専用の跨線橋として余生を送る向野橋。19世紀末にアメリカで生まれ、大事故に見舞われた後に名古屋へ移設されたこの橋に、“ドボかわいい”を見つけた。

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP 社刊、共著)


控えめな淡いレモン色にペイントされたトラス橋。上弦材がカクカクしたカーブを描いているところが、亀の甲羅のようでドボかわいい。鋼材は、規模の割に華奢に見える。そのせいか、遠目には橋全体がレースのように繊細で軽やかだ。
名古屋駅から2kmほどの位置に架かる跨線橋「向野橋」は、推定1899年製造の118歳。外観の印象からは想像し難い数奇な運命をたどって今、ここにある。

亀の甲羅のようなカタチがドボかわいい。支間280フィート(約85m)は1899年当時の日本では破格の長大桁だった。

不慮の脱線事故で橋桁が損傷 鉄道橋の役割を終える

現在は名古屋の道路橋となっている向野橋は、もともと渓谷をまたぐ鉄道橋だった。京都鉄道(後の山陰本線)の保津川橋梁である。急流に橋台を設置することを避ける意図と、名物の川下りに支障がないようにとの配慮から、当時日本最長と言われた支間長約85mの長大橋として設計されたものだ。
製造は、アメリカの橋梁メーカー、A&Pロバーツ。上弦材が水平でなく、斜材が中央に向かって下向きになった「曲弦プラットトラス」と呼ばれる構造形式をとる。ちなみにこの時期、世界最先端の橋梁技術を誇っていたアメリカから、およそ300連にのぼる鉄道トラス桁が輸入され、全国に架設されたという。
ところが1922年4月、この橋の直前で列車の脱線事故が発生。軌道を外れた暴走列車はそのまま橋へ突入して桁に激突し、乗客の一部が投げ出されて渓谷へ転落した。当時の新聞報道によれば、即死者3名、負傷者多数の大惨事であった。かつて社長として京都鉄道を敷設した実業家・田中源太郎もたまたまこの列車に乗り合わせ、命を落としたとされる。
破損したトラス桁は応急修理されたものの、これを機に設計荷重の大きな新桁が設計され、6年後に架け替えられた。

現在は歩道橋となっている向野橋。さまざまな電車が見られることから、親子連れや鉄道ファンにも人気のスポットだ。垂直材には保津川橋梁時代の事故で損傷した補修の跡が残る(円内)。

新天地・名古屋に根を下ろし産業発展を見守る

こうして保津川から撤去されたトラス橋は、1930年に名古屋へ送られ、10線以上の線路をまたぐ道路橋に生まれ変わった。それにはこんないきさつがある。
昭和初期のその頃、名古屋駅は輸送量の増加に伴い、旅客と貨物を分離する計画が進んでいた。このときに新設された貨物駅が笹島駅である。付近には蒸気機関車の車両基地もつくられた。同時に、中川運河が開削され、名古屋港と笹島貨物駅を結んだ。一連の物流経路の開発によって、この地は陸路と水路双方の貨物中継点となったのである。
ただ、一つ懸念されたのが、基地へ向かう線路によって市街地が分断されてしまうことだ。この問題を回避するためには、跨線橋を新設する必要があった。
そこで白羽の矢が立ったのが、保津川橋梁から取り外したトラス桁だ。当時の国鉄は、跨線橋を新設する際に、他の路線で不要となった中古の桁を転用することが多かったという。軌道内に橋脚を立てることなく両側の街を結べる長大スパンは、この場所にうってつけだった。
こうして、旧保津川橋梁は向野橋と名を変え、この地で道路橋として第二の役目を担うことになった。
それから87年。笹島駅は1980年代後半の国鉄民営化の際に廃止され、跡地には2004年にあおなみ線の「ささしまライブ駅」が開業。駅の南側では現在、「ささしまライブ24地区」の再開発が進んでいる。すでに、超高層ビル「グローバルゲート」の一部や中京テレビ放送新社屋が竣工し、愛知大学のキャンパスも移転。10月にはグランドオープン、まちびらきの予定だ。
再開発にあたり、名古屋市は土地区画整理事業の一環として、鉄道をまたぐ歩行者用のオーバーパスと自動車用のアンダーパスを整備している。前者はすでに「ささしま米野歩道橋」として供用されており、通勤や通学、買い物などで両側の街を往来する人たちで賑わう。
一方、長い間、名古屋の産業発展の様子を見守ってきた向野橋は、老朽化により数年前から車が通行止めとなっている。歩道橋としても、ささしま米野歩道橋に主な役割を譲った格好だ。今は、さまざまな電車を眺められる憩いのスポットとして、地元の人々や鉄道ファンに愛されながら、静かな余生を送っている。
困難に負けず、明治から平成まで生き抜いてきたこの橋は、ただドボかわいいだけではない芯の強さを漂わせていた。

保津川橋梁時代の様子が絵葉書に残っている。(写真:土木学会附属土木図書館)

再開発の進む、ささしまライブ24地区。中川運河の船だまり(左)とアンダーパスの工事が進む都市計画道路(右)。線路の遠方に向野橋が見える。

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