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連載

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2019年12・2020年1月号 No.514

かわいい土木 東京港発展のレガシー 貨物廃線の赤い橋

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


開国港として横浜港が先に発展したことから、近代港湾としての整備が遅れた東京港。戦後になってようやく本格的な国際港として歩み始めると、東京都は埠頭と鉄道駅をつなぐ貨物線の整備に力を入れた。物流面で高度成長を支えた臨港鉄道の遺構は、東京港発展のレガシーを伝えている。

 

東京メトロ東西線木場駅から三ツ目通りを南へ10分ほど歩くと、汐見運河の手前左側に
 元深川線の線路が100mほど続いているのが見える。
 

「立入禁止」の看板が掛かった柵の先に、運河を渡る線路が見える。コンクリートの桁橋の奥には、赤くさびた鉄のアーチ橋。対岸側には再び桁橋が続く。地元では「赤橋」と呼ばれる旧晴海鉄道橋だ。床版の砂利のすき間からたくましく伸びる雑草と、アーチ部のさび色のコントラストがかもし出す廃線感が味わい深い。

かつてはここに、晴海埠頭ふとうと越中島の貨物駅を結ぶ臨港鉄道、晴海線が通っていた。新聞巻取紙(ロール状の新聞用紙)、
輸入小麦、大豆、セメント、雑貨などを貨物列車に載せ、越中島駅との間を行き来して海路と鉄路をつないでいたのだ。

東京都港湾局が港湾施設の一環として管理するこうした専用線は、他にもたくさんあった。まず1953年に越中島駅と豊洲石炭埠頭を結ぶ延長約2.6kmの深川線が開通。この路線が分岐して57年に晴海線、59年に豊洲物揚場ものあげば線がそれぞれ開通した。

都の専用線を分岐するかたちで、企業の引き込み線も敷設された。例えば、東京ガスは豊洲地区に工場を建て、船で運ばれてきた石炭から都市ガスを生成。副産物であるコークスを引き込み線で出荷していた。

また、東京湾を挟んだ対岸でも60年代にかけて、汐留駅と芝浦埠頭を結ぶ芝浦線、日の出埠頭を結ぶ日の出線などが整備された。最盛期の60年代後半には、総延長24km、年間貨物量170万トンに及んだという。

明治時代の築港計画が60年後に実現

臨港鉄道の発達は、東京港の発展の歴史を物語る。

東京の築港論が初めて登場したのは、1879年(明治12年)のことだった。思想家の田口卯吉が、自由貿易による商業立国を掲げ、品川沖に近代港を開いて国内外の海運基地とすることを提唱したのだ。当時の東京府知事・松田道之は、田口の案に賛同し、築港の検討に入ったものの、その矢先に急逝。計画は白紙に戻った。

その後も東京築港は、浮上するたびに頓挫する。「東京に国際港ができれば横浜港が廃れる」と危惧した外国の生糸商人や、首都への外国船の入港を嫌う軍事関係者たちの根強い反対があったからだ。

この状況が一転するきっかけとなったのが、1923年(大正12年)の関東大震災だ。陸上交通は壊滅し、救援物資を船で運ぼうにも、大型船舶の接岸できる埠頭がなく、荷役は困難を極めた。これが教訓となり、日の出、芝浦、竹芝の各埠頭が整備された。

ただし、就航を認められたのは国内船のみ。外国貿易の貨物は横浜港からはしけで東京港へ運ばざるを得なかった。ようやく東京が開港したのは41年(昭和16年)。日本統治下の台湾、満州、関東州の就航船のみが対象とはいえ、東京港を国際貿易拠点にするという明治以来の計画が、60年越しに実現することになった。

ところが、半年後に太平洋戦争に突入すると東京港は軍専用となり、終戦後はGHQによる接収を受ける。東京港が本格的な国際港としての歩みを踏み出したのは、返還が始まった53年以降のことだ。臨港鉄道として東京都専用線が敷設されたのも、まさにこの時期だった。

▲立入禁止の柵の先に、線路が続く。旧晴海鉄道橋は現在、遊歩道として整備するための設計が進んでいる。
 

高度経済成長を支えた臨港鉄道の今

それからおよそ30年。陸上貨物輸送の主役は鉄道からトラックへと移り変わり、役割を終えた東京都専用線は89年に全線廃止となった。貨物線とはいえ、敷設からわずか30年間という供用期間は、あまりにも短く、はかない。一方で、その短さこそが、日本が敗戦から復興し、高度経済成長を達成するまでの驚異的なスピードを表しているのだ。

廃線からさらに30年がたった今、跡地の多くは再開発され、マンションやオフィスビルに姿を変えた。それでもなお、旧晴海鉄道橋をはじめ、遺構が残っている場所も少なくない。高層マンションの隣地に廃線の線路が100m以上まっすぐ延びていたり、運河の中に鉄道橋のなごりの橋脚が残っていたり。現地を訪れ、ウィキペディアにも載っている往時の路線図を頼りに痕跡をたどっていくと、異様に縦長の駐車場が線路跡地だったことに気づいたりもする。

目前に迫った東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会では、ベイエリアに多くの会場が設けられる。これに合わせて都は海上公園の整備を進めており、その一環として旧晴海鉄道橋も保存改修され、遊歩道として生まれ変わる予定だ。

橋からは、晴海や豊洲の高層ビル群がよく見えるはず。その同じ場所に、かつては倉庫や工場が立ち並び、埠頭には大型船舶が停泊し、荷物を満載した貨物列車が走っていた。明治維新から関東大震災、太平洋戦争、高度成長を経て東京が、日本がどう変わってきたか。橋を渡りながら、そんなことに思いを馳せたい。

▲両岸から延びるコンクリート桁橋にアーチ橋がサンドイッチされている。アーチ橋は、桁とともに太いアーチ部材が「曲げ」に対する抵抗を受け持つ「ローゼ桁」という形式だ。
 ▲線路跡地の細長い駐車場の突端には、豊洲運河に架かっていた鉄道橋の橋台があった。フェンスの先の運河の中に、橋脚が2基残っている。
 
 
■アクセス
旧晴海鉄道橋へは東京メトロ有楽町線・ゆりかもめ豊洲駅から徒歩8分、東京メトロ有楽町線・都営地下鉄大江戸線月島駅から徒歩10分
 

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