連載

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2019年10月号 No.512

天然岩礁に守られ荒波に耐える海の玄関

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。広報研修講師、社内報コンペティション審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


天草市の南端の海に、和装の男性用帽子「烏帽子」に似た三角形の構造物が、岸へ顔を向けて鎮座している。明治期に採掘された海底炭田、烏帽子坑の抗口だ。波に洗われながら120年以上も口を開けたまま遺っているのは、背後にある岩礁を利用した防波堤のおかげ。海の底へ誘われるような不思議な光景の謎をひもとく。

 

▲「日本の夕陽百選」にも選ばれている小森海岸からの眺め。
手前に見えるのが烏帽子坑跡。地元では「海軍炭鉱」とも呼ばれていた。
 
台風一過の青い空と穏やかな海。天草市の南端に位置する下須島げすしまの西、沖合200mほどのところに、ぱっくり口を開けた三角形の構造物。海面に突き出た潜水艦の潜望鏡のようにも見えてドボかわいい。
これが、天草炭田の一つ、烏帽子坑の跡だ。現在は、天草市指定史跡となっている。

防波堤にガードされた赤レンガの抗口

 天草炭田はかつて、天草の下島と下須島の西側に集積していた。炭鉱の開発が進んだのは、明治時代の後期から大正時代にかけて。烏帽子坑は1897年(明治30年)に、天草炭業会社が構築した海底炭鉱だった。
 
現在も残るこの構造物は炭鉱の坑口こうぐちで、海底の鉱床へ続く斜坑(傾斜した通路)の出入り口と換気口を兼ねたものだ。 抗口を覆う赤レンガは5層になっており、4層積み重ねた表面に1層を貼り付けてある。レンガの接着には、赤土と松ヤニを混ぜたものが使われた。
 
入り口は開口部の内側が高さ、幅ともに約2.2m。土台から頂部までの高さが約6.5mある。アーチの頂点にあったはずの、くさび型のキーストーンは落ちてしまったのか、コンクリートを埋めて補修してあるようだ。よく見ると、抗口の上下も鋼材と鋼線でタガをはめてある。
 
とはいえ、建設から120年以上、波と風にさらされながら、ほぼ原状を留めているのは驚異的。抗口の背後に築かれた防波堤のおかげだ。もともとあった岩礁の上に石垣を組み上げたもので、東シナ海の荒波から体を張って抗口を守り続けてきた。
 
▲陸側へ向けて口を開けた抗口。背後の防波堤は、天然の岩礁に切り石の石垣を台形状に付け足したもの。
造形的にもドラマチックな印象を与えている。
 

艦艇の燃料自給を願い無煙炭に賭けた帆足義方

烏帽子坑を開発した天草炭業は、筑豊で活躍した鉱業家・帆足義方が弟とともに起した会社だ。義方は江戸時代の士族の出身で、明治新政府では兵部省や陸軍省の役人になった。西南戦争のころに熊本に赴任し、その後、公用で訪れた福岡で石炭鉱脈を発見したとされる。
 
日本の工業発展のためには鉱業が必須と考えていた義方は、即座に辞職。引き止める周囲に「今の仕事は他の人でもできる。国家のために私は地下の至宝を採掘する」と言い残し、鉱業家に転身した。
 
短期間で著名な炭鉱主となった義方だが、機械化による大規模鉱区の開発を推進する新制度に適応できず、明治20年代後半には筑豊を去ることに。その後、かねてより採掘権を持っていた天草北部へやってきた。
 
やがて義方が目をつけたのが、天草南部で産出する無煙炭だった。その名のとおり、燃やしても煙が出ず、火力が強いのが特徴の石炭だ。その採掘のために天草炭業を起ち上げて烏帽子坑を開発し、崎津港には練炭工場も建てた。
 
義方が無煙炭に注目したのは、軍需品の自給に貢献したいと考えたからだ。当時、海軍の艦艇は石炭を動力としていた。しかし、質の悪い石炭を使うと、ばい煙によって敵艦から見つかるリスクが大きく、船員も煙に苦しむことになる。
 
英国から良質の無煙炭を輸入する道もあったものの、高価なうえに、外国に頼るのでは安定供給はおぼつかない。列強の脅威のもとで軍事力強化を急ぐ海軍省が全国を調査し、適格とお墨付きを与えたのが天草の無煙炭だった。
資料によれば、烏帽子坑では1899年の時点で、女性8人を含む47人の坑員が働いていたという。天草炭業は海軍の用命に応じて多量の練炭を納め、日露戦争では燃料自給の一端を担った。
 

湧水に泣かされた手掘りの海底炭鉱

ところが、烏帽子坑は開業からわずか数年で閉坑となってしまう。主な原因は湧水だ。
炭層が地殻変動や火山の熱作用で変質してできた天草炭田は、全域にわたり褶曲しゅうきょくや入り組んだ断層が多く、傾斜が急。特に、烏帽子坑は傾斜が海底に向かっている。15mほど採掘した地点で海底の断層に差し掛かり、湧水量が増えて排水が間に合わなくなった。
 
当時、主要な炭鉱では機械化が進んでいたが、傾斜が急な炭鉱では機械が使えない。排水をはじめすべての採掘作業は人力で行われたと考えられる。昭和期の調査では、坑道に、水を汲み出すための竹筒や木製のレールが残されていたとの記録がある。
 
やがて大正から昭和へかけて、艦艇の燃料は石炭から石油へシフトしていった。烏帽子坑跡は、資源の乏しい小さな島国の日本が、押し寄せる列強の波に懸命に耐えた記念碑でもある。
 
 
▲平たいレンガを積み重ね、表面の仕上げにも貼り付けてある。横から見るとまさに烏帽子の形。
ちょっと猫背な感じもドボかわいい。
 
 
▲抗口はアーチのキーストーンが流失し、コンクリートで補修してある。上下は鋼材で補強。
 
 
■アクセス
天草空港からハイヤ大橋を通って車で約1時間10分。小森海岸から眺めることができる(海上にあるため、接近はできない)。
 

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