名建築のつくり方
「花ブロック」はどのように生まれた?
| A アンサー 2. 戦後に普及したコンクリートブロックを地元の建築家がアレンジした |
1981年、沖縄県名護市に完成した「名護市庁舎」は、おそらく1980年代の日本の建築で最も評価の高いものの1つだ。この建築が嫌いだという建築関係者に会ったことがない。
1978年8月から翌79年3月にかけて行われた公開設計コンペには、全国から308案が応募。当選したのは象設計集団とアトリエ・モビルの共同体である「Team ZOO」だった。市政10周年の記念事業として、1980年3月に着工。81年4月に竣工した。
庁舎を訪れた人は「自然と建築が一体化している」という感想を抱く。各階にある「アサギ・テラス」にはブーゲンビリアがからみつき、屋上の一部には緑化が施されている。「アサギ」は神様が降りてくる場として沖縄の集落に設けられる東屋のようなもの。確かに、森の中の神様に見守られているようだ。
だが、よく考えると建物の構造は木造ではないし、仕上げも自然素材は少ない。目に入るのはコンクリートブロックと花ブロックばかり。自然素材とは対極の素材で自然を感じさせているのだ。それこそが設計者の狙いで、象設計集団はこう説明している。
「戦後、ものすごい勢いで普及したコンクリート・ブロックを主な材料とし、その多様な使い方を学ぶこと。それは、圧倒的量で、都市を埋めている材料であり、その技術は極めて進んだものがある。柱のブロック、花ブロック、平板ブロック等の使用は、その技術的ストックがあってはじめて可能であった」。
「技術的ストック」という言い方でわかるように、花ブロックはこの庁舎のために開発されたものではない。すでに沖縄にあった。
ときは第二次大戦後の占領下。戦災復興のなかで、沖縄の建築は「木造軸組み構造」から「鉄筋コンクリート造」へと大きく転換した。木造に赤瓦を載せた街並みは消え去り、アメリカ統治の下、鉄筋コンクリートによるビルや住宅が急激に普及していった。
そこに新たな沖縄らしさを加えたのが、花ブロックだった。花ブロックとは、コンクリートを用いた「透かしブロック」の沖縄における通称だ。沖縄の建築家、仲座久雄(1904~62年)が考案したとされる。

沖縄にとって好条件がそろう
仲座は沖縄の建築を語るうえでのキーマンの1人。1920年代に大阪で建築を学び、沖縄に戻った後、1936年に「守礼門」の修理工事主任を務めた。戦後は、復興住宅の設計に関わり、沖縄建築士会初代会長も務めた。
仲座が戦後に注目した素材の1つがアメリカからもたらされたコンクリートブロックだった。台風に強く、シロアリ被害がない。セメント、砂、骨材などの主原料が地元で調達でき、金型にコンクリートを流し込んでプレスするだけなので、小規模な設備で製造可能。沖縄にとって好条件がそろっていた。
仲座は1954年に那覇市内に完成した「當間和裁教習所」で、コンクリートの透かしブロックを手すり壁などに初めて使った。2年後の1956年に建てた自社ビルでは、建物の4面にオリジナルの透かしブロックを使用。大きな話題となった。
ビルは現存しないが、資料によれば円形や楕円形を用いた7種類のブロックが使われたという。幾何学的なデザインについては「沖縄織物のかすり模様に着想を得た」ともいわれるし、「沖縄伝統の石灰岩を積む手法を再現した」ともいわれる。
そして、1981年に完成した名護市庁舎がこれを一躍、全国区にした。設計者らが「花ブロック」と繰り返し説明したこともあり、その呼び名が定着した(仲座は当初、異形ブロックと呼んでいた)。
透かしブロックは沖縄以外でも使用されており、特殊な建築資材ではない。だが沖縄の花ブロックは種類が比べものにならないほど多く、視覚的印象を左右するほど大量に用いる建築も少なくない。戦後に生まれた地域素材と言ってよいだろう。

参考文献・資料:
名護市公式サイト、象設計集団のサイト、「戦後沖縄における『花ブロック』の変成」および「「仲座久雄と『花ブロック』」磯部直希著、タイムス住宅新聞ウェブマガジン「フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[4]」および「[沖縄・建築]花ブロックの誕生 軌跡と背景」
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