かわいい土木
横浜水道復興の遺産「トンネル兄弟」
Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木技術者になるには』(ぺりかん社)、本連載をまとめた『かわいい土木 見つけ旅』(技術評論社)
1887年、全国に先駆けて近代水道が通水した横浜。都市の拡大とともに水道も拡張を重ねてきた。市内に残る東隧道と大原隧道は、昭和初期の建設当初の姿を100年近くたった今も見事に保っている。時を経て風景の一部となり、地域のシンボルとして親しまれている兄弟トンネル――私は愛を込めて「トンネル兄弟」と呼ぶ――の来歴をたどった。
トンネルを歩いて抜けて振り返ったとき、思わず「おお!」と声が出た。まず、坑口(トンネルの出入口)のアーチや装飾の付け柱などの白い花崗岩と、壁面の紫がかった「焼き過ぎレンガ」のコントラストが美しい。また坑門(出入口全体の構造物)と周囲の自然との一体感が格別だ。坑門の上には草や新緑の細い枝がしなだれかかり、正面奥には満開の桜が君臨している。手前の法面の苔むした石垣も素敵だ。
▲1930年(昭和5年)に竣工した東隧道。2000年に横浜市認定歴史的建造物、2006年に土木学会選奨土木遺産にそれぞれ選ばれている
トンネルの路面の下に人知れず流れる水道
4月上旬、JR保土ケ谷駅から国道1号、すなわち旧東海道を渡り、南側へ続く道を進む。7〜8分で上り坂の途中にある東隧道に到着した。
入口の銘板によれば、延長は168m、高さ6.3m、幅員が5.3m。地元の生活道路として普通に使われているようだが、この隧道はただの道路トンネルではない。路面の下には、水道幹線が通っているのだ。つまり、公道と水道が兼用になったトンネルというわけだ。
中に入ると人一人がやっと歩けるほどの細い歩道があり、すぐ脇をクルマや自転車がビュンビュンすり抜けていく。みな平気な顔で歩いておられるが、部外者の私は少し緊張する。と、壁際に大人が数人並んで立てるほどの凹みがあることに気づいた。電車のホーム下などにあるような「待避所」らしい。それが10mおきぐらいに設けられている。白く塗装されたアーチ型の凹みは、角が丸く有機的なフォルムをしており、雪国のかまくらのようでドボかわいい。
▲東隧道の待避所。歩行者はこの凹みに入って安全にクルマをやり過ごすことができる
東隧道を抜けて、「兄弟トンネル」と呼ばれる相方の大原隧道へ向かう。10分ほど歩いて幹線道路から枝道へ入るとすぐ、坑門が見えた。兄弟というだけあって、焼き過ぎレンガと花崗岩からなるデザインはそっくり。ちなみに、この「焼き過ぎレンガ」という名称、ちょっと妙な感じがしないだろうか。普通に焼くはずだったのにうっかり焼き過ぎちゃった、といったニュアンスだ。最初から意図的に高温で焼いているのに、「〜しすぎ」といっているのが面白い。さらに、長手(レンガの長い面)だけ焼き過ぎにしたものを「横黒」、小口だけ焼き過ぎにしたものは「鼻黒」と呼んでいたという。ハナグロなんて、犬みたいだ。
話を戻そう。大原隧道はサイズ的には東隧道よりもずっと小さく高さ3.62m、幅2.44mながら、延長は254mと長い。こちらも下には水道幹線が埋設されているが、東隧道と違い路面は歩行者・自転車専用でクルマは通れない。坑門の上の丘にはやはり、桜が美しい花を咲かせていた。
▲1928年(昭和3年)に竣工した大原隧道。坑門の紫がかった「焼き過ぎレンガ」と白い花崗岩の組み合わせや、長手と小口を交互に積み重ねた「フランス積み」は東隧道と同じだが、デザインは少し異なる。焼き過ぎレンガは、普通のレンガより高温で焼成したもので、耐久性が高い。大原隧道のアーチ部は小さく、花崗岩の厚みがあってかわいらしい。東隧道とともに横浜市認定歴史的建造物・土木学会選奨土木遺産になっている
寸断された水道の復興事業としての延伸
水道の配水管を内包する東・大原のトンネル兄弟は、どのようにして生まれたのか。きっかけは、関東大震災だった。
一昨年の2023年は震災からちょうど100年の節目で、メディアでもさかんに特集が組まれていた。そうした報道は東京の火災を取り上げたものが主で、横浜の被害についてはあまり目にしなかった。しかし、震源の伊豆大島付近により近い横浜市では、住宅の全壊棟数が約16000棟と、東京市の約12000棟を上回っていた。
水道施設も大きな被害を受けた。横浜は日本の近代水道の始まった地。1887年(明治20年)に通水を開始して以降、人口の急増や工業化によって配水量が足りなくなり、二度の拡張工事を行っていた。
だがその水道も、大地震によって配水管が折れ、継ぎ手が外れるなどして寸断。市役所前では配水管が破裂し、避難者でごった返す横浜公園が水浸しになった。浄水場も機械が壊滅し、ろ過池が漏水して使えない。
突貫で応急復旧工事が進められた結果、翌1924年(大正13年)3月に配水管は復旧。その後始まった本格的な復興事業では、西谷浄水場に急速ろ過池が新設された。それまで浄水場だった野毛山は、盛土であり震災の被害も大きかったこと、敷地が狭かったことなどから配水池のみに変更。
復興事業の一環として、第2回拡張工事の後に横浜市に編入され、水道が未整備だった地域への配水幹線の敷設も決まった。その一つが「蒔田磯子線」で、西谷浄水場から保土ケ谷駅付近で東海道線の踏切の下をくぐり、南太田や蒔田方面へ配水する。途中、水道幹線が台地にぶつかる箇所に建設されたのが、トンネル兄弟だ。保土ケ谷から南太田へ通じる新設公道と併用となる東隧道では、配水管と道路が同時に築造された。
それからおよそ100年が過ぎ、今も横浜市の水道網の一部はトンネル兄弟の下を流れ続けている。小さいながらも風格のある二対の坑門は、周囲の街並みに溶け込み、地域を特徴づける味わいのある風景を形づくっていた。
▲大原隧道の脇に階段があったので上ってみた。桜の木の下に坑門がある
●アクセス
JR保土ケ谷駅から東隧道まで徒歩で約7分、そこから大原隧道まで約10分
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