特集
「複合災害」から国土を守る建設業の役割とは
■ 道路の緊急復旧は2週間で
私たちのライフラインの根幹である道路が、能登半島ではどのような被害を受け、そしてどのように復旧されたのか。国土交通省がまとめた「令和6年能登半島地震 能登半島 道路の緊急復旧の経緯」という資料を見ていきます。
地震が発生した1月1日時点で、奥能登地域の珠洲市、輪島市、能登町、穴水町を結ぶ道路が寸断されていました。穴水町は奥能登では最も南側に位置し、金沢市方面に位置する七尾市との交通が可能でした。
この緊急復旧では国交省、石川県、自衛隊が連携し、翌1月2日、穴水町から珠洲市役所、輪島市役所、能登町役場までの普通車両の通行を可能としました。土砂で埋まったり路盤が損傷したりした道路を最低限啓開し、片側通行で通れる状態としたものです。大型車両の通行が可能となったのはこの2日後、1月4日でした。地震発生から約2週間後の1月15日には、主要幹線道路の約9割で通行が可能となりました。
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24時間体制で道路を復旧
■ 地震発生後の道路の復旧状況。珠洲市と輪島市、能登町、穴水町へのアクセスが可能なルートを示した。地震発生から1週間ほどで主要な幹線道路の緊急復旧をほぼ終え、その後は一般道などの復旧も始まった (出所:国土交通省の資料を基に日経クロステックが作成)
日経クロステックの取材によると、主要幹線道路における初動の啓開活動では、石川県内でも比較的被害が少なかった、金沢市以南を主要エリアとする建設会社が中心的な役割を担ったことが分かっています。24年1月1日の地震発生以来、初期の10日間において、参加企業は金沢市内に本社を置く会社だけでも25社程度に及びました。県との災害協定に基づき、石川県建設業協会が各社に要請したものです。
協会によると、この活動では重機のオペレーターや作業補助者など、3人から4人を1班として編成しました。地震発生の翌日、2日の昼ごろに第1陣として、重機1台を積んだダンプトラックが金沢から出発しました。
ただ道路の損傷は激しく、大型車両が乗り越えられない段差があちこちにありました。第1陣はその都度、ダンプトラックから重機を降ろし、土をならしてからダンプトラックを進ませ、再び重機を積む、という作業を余儀なくされました。金沢から輪島市西部は、通常であれば2時間程度で着く距離ですが、第1陣が目的地の輪島市西部に到着したのは夜遅く、午後11時過ぎだったそうです。
この道路啓開活動は日を追って拡大、数多くの班が参加しました。能登空港に宿営地が設定されたものの、現場への往復に時間がかなりかかるため、多くの班は基本的には現場付近で車中泊していたそうです。各班は被災地の迷惑とならないよう、食料や燃料を調達した上で被災地に向かっていました。過酷な作業状況ですから、参加各社は1回当たりの派遣期間を3日間とし、ローテーションする形で各現場の作業を進めました。
奥能登地域の地元建設会社は市町村の要請に応じ、幹線道路から集落を結ぶ道路の啓開に当たっていました。地元建設会社では被災した人も多く、社員全員の安否が分からない状態だった会社もあったようです。こうした地元会社では、限られた人員が不眠不休で作業に当たっていました。こうした奮戦により、国交省の資料によると、道路寸断による集落孤立は24年1月19日時点で解消しました。
奥能登地域には国管理の道路がほとんどありませんでしたが、石川県の早期要請に応じ、国交省北陸地方整備局は日本建設業連合会(日建連)へ加盟する大手建設会社に作業を依頼。県と並行して災害復旧を進めました。24年7月時点の資料によると、迂回路が整備されたことを考慮すれば、緊急復旧の進捗率は主な幹線道路の約9割で完了しています。寸断していた内陸側から沿岸部へ到達できるルートも、24年1月7日時点から倍増しました。
ただ、その後も難工事は続きました。困難を極めたのが、輪島市の東西を結ぶ国道249号線の「中屋トンネル」の応急復旧工事です。トンネルの長さは1.3kmで、覆工コンクリートの崩落事故により、近隣約5.5kmの道路が通行止めとなっていましたが、応急復旧を終え、一部片側通行とした上で25年7月17日に開通しました。
権限代行により工事実施者となった国交省は、中屋トンネルについて24時間体制で応急復旧工事を進めていました。その最中である24年9月21日、中屋トンネルを含め、奥能登地域一帯を豪雨災害が襲いました。豪雨でトンネル前後のアクセス道路の斜面で土砂崩れが発生、再び道路が埋まったり、応急復旧道路が流れたりといった被害が出ました。
25年7月のトンネル開通は、道路が流出した複数の地点に仮橋を設置するなどで、ようやく実現したものです。本復旧に向け、現地では新たなトンネルを整備して、交通経路を多重化する計画が進んでいます。
■ 隆起した海岸に応急復旧の道路を整備する様子 (写真:日経クロステック)
■ 能登豪雨後の道路啓開の様子。2024年9月25日撮影 (写真:日経クロステック)
■ 7000戸以上の仮設住宅を整備、木造タイプも
市街地を中心として、被災地では仮設住宅建設も進みました。石川県によると、24年12月時点で、計164団地7168戸が整備されました。前出のように被災地では24年9月に豪雨災害も発生したので、その対応を含む数字です。
従来、仮設住宅は長屋型のプレハブが主流でしたが、様々な地震災害の経験から、用地の状況や供給能力を勘案して3つのタイプが用意されました。これらの供給も建設業界の大事な役割となりました。
まず従来型応急仮設住宅は、迅速かつ大量に仮設住宅を供給し、避難所生活の早期解消を図ることを目的に、学校のグラウンドや公園といった公有地に設置されました。これは従来通り、長屋型のプレハブ、モバイル住宅が用いられました。入居開始から2年間の期間終了後は撤去を前提としています。
2つ目が「まちづくり型応急仮設住宅」です。奥能登地域の里山・里海景観に配慮し、新たな住宅街区を整備することを目的として、市街地や市街地近郊のまとまった空地などに長屋型の木造応急仮設住宅を整備しました。入居期間終了後は市や町の公営住宅へ転用される予定です。つまり、ほぼ本設の住宅が“仮設”として整備されました。
3つ目が「ふるさと回帰型応急仮設住宅」です。能登地域から離れ、金沢市などで「みなし仮設住宅」に生活する被災者に、ふるさとへ回帰してもらうことを目的とし、集落内の空地などに戸建て風の木造応急仮設住宅を整備しました。これもやはり、入居期間終了後は公営住宅への転用を基本としています。
公営住宅への転用を想定した木造の2タイプは、市街地エリアと山間部集落エリアという、地域性をそれぞれ考慮したものです。これらはJBN・全国工務店協会、全国建設労働組合総連合(全建総連)が会員となっている全国木造建設事業協会(全木協)が中心となって整備を進めました。
日経クロステックが取り上げた仮設住宅の1つが、建築家の坂茂氏が設計した木造2階建ての仮設集合住宅です。24年7月に入居が始まりました。計9棟135世帯の仮設住宅と、集会所1棟からなる仮設住宅団地です。敷地は珠洲市の沿岸地域に位置し、この団地は前出の「まちづくり型応急仮設住宅」に相当します。施工は県内の住宅会社8社で構成する石川県建団連が担当しました。
木造建築に興味がある方はご存じかもしれませんが、CLT(直交集成板)という木材を使った新たな集成材製造技術があります。まな板程度の厚みの細長い木のひき板を接着し、パネル状の建築材料をつくるものです。木の繊維方向を直交に互い違いとすることで、引っ張りにも圧縮にも強い材料になります。坂茂氏の設計により珠洲市で完成した仮設住宅では、このCLT技術にヒントを得た「DLT(木ダボ接合積層材)」が使われたのが特徴です。接着剤やくぎを使わず、簡易な方法で製造できます。
坂茂氏が設計した仮設住宅は、スギ材でこのDLTパネルを製造し、箱状のユニットを構築して2階まで積み上げた木造建築です。つまり柱や梁がありません。内外装はスギの現し仕上げとなり、木のぬくもりが感じられる住宅となりました。
坂茂氏はこれまで、世界中の災害現場に赴き、ボランティア活動を通じて被災地の力となってきた人物です。世界には災害が必ず起こるのだから、「避難所と仮設住宅のアップグレード」が欠かせない、と提唱しています。建築家のデザイン力、街づくりへの考察力も、被災地支援には必要となっていくでしょう。
■ 上2点は、坂茂氏が設計した木造2階建て仮設集合住宅の外観と内観。右下はなりわい支援のための仮設工房 (写真:日経クロステック)