かわいい土木

かわいい土木
2021年11月 No.533

水郷の暮らし伝える十二橋

Photo・Text : フリーライター 三上 美絵
大成建設広報部勤務を経てフリーライターとなる。「日経コンストラクション」(日経BP社)や土木学会誌などの建設系雑誌を中心に記事を執筆。
広報研修講師、社内報アワード審査員。著書『土木の広報~『対話』でよみがえる誇りとやりがい~』(日経BP   社刊、共著)


古くから「水郷」と呼ばれる千葉県の佐原さわら。霞ヶ浦から流れ出る常陸利根川と与田浦に挟まれた加藤洲かとうずは、かつては孤島だった場所。家と家、家と田をつなぐ水路には、12の橋が架かっていた。水害に苦しめられながらも、水とともに暮らしてきた人々の歴史をひもとく。

潮来いたこの舟乗り場から「サッパ舟」と呼ばれる小舟に乗り、常陸利根川を渡る。潮来側は茨城県だが、対岸は千葉県香取市だ。小さなこう門をくぐると、その先に細い江間えんま(水路)が続く。300mほどの区間の両岸に住宅が並び、家々をつなぐ簡素な橋が架けられている。このドボかわいらしい橋群が「加藤洲十二きょう」だ。

これらの橋は、もとはそれぞれの家が自家用に架けたもので、個人の所有物だったが、今は観光資源として香取市が管理している。「昔は、利根川でつながる銚子漁港から、木造船の船底板をもらってきて架け渡したそうだ」とサッパ舟の船頭さんが教えてくれた。

両岸の家ごとに、大谷石を階段状に積んだ桟橋が設置してあり、なかには小さなドックを備えている家もある。牛を田へ連れて行くのも舟なら、花嫁が嫁いでくるのも舟。舟こそが暮らしの足だった時代がしのばれる。

隠遁いんとん武士」を起用した徳川家康の戦略

一帯は江戸時代初期に開発された新田で、「十六島じゅうろくしま」と呼ばれる。南を利根川本流、西を横利根川、北を常陸利根川に囲まれた文字どおりの「島」で、周囲約26kmの「輪中わじゅう」だ。中世までは砂州が点在する「香取海」と呼ばれた干潟で、常陸ひたち国(今の茨城県)と下総しもうさ国(今の千葉県)を隔てる水域として、常総のどちらにも属さないまま放置されていた。

状況が一変したのは、徳川家康が豊臣秀吉によって関東へ転封てんぽう(領地替え)され、江戸へ入府した天正18年(1590年)のこと。家康の所領となった下総は、香取海を隔てて佐竹氏の所領である常陸と接していたため、この地が軍事上の要衝として浮上した。

そこで、家康はここを徳川領であると宣言。代官・吉田佐太郎を通じて土岐とき氏の旧家臣団を中心とする「隠遁武士」に、新田開発と国境警備を担わせた。佐竹氏に滅ぼされ、落人おちうどとなったうらみを持つ武士たちには、適役というわけだ。

ちなみに、佐竹氏は1602年に家康によって出羽国でわのくに(今の秋田県)に転封され、この地の脅威はなくなった。それ以後は、隠遁武士たちによって、約50年の間に16の新田が開発され、加藤洲もその一つだった。

▲常陸利根川と加藤洲の江間の水位を調整する加藤洲閘門。

利根川に運ばれた土砂がつくった島

十六島の開発が始まったころはまだ、利根川は今の東京湾へ注いでいたが、家康が江戸の洪水対策として計画した「利根川東遷とうせん」によって、少しずつ現在のように銚子へ向け、流路を変えられていった。

これにより、香取海へ土砂が運ばれるようになり、砂州が拡大。加藤洲もこうしてできた砂州の上に築かれた。

十六島では、潮の干満によって水位が大きく変わる。このため、満潮時に水没する場所は水田とし、そうでない場所には盛土を施して宅地とした。集落の周囲には堤防を巡らせ、水田や家々の間は縦横に走らせた江間で区切った。

江間は周囲の川とつながっているので、満潮のときは江間から水田へ水が入り、干潮になれば自然に排水される。宅地の中へ引き込んだ江間は、住人たちの交通路となり、水田と家の往来にもサッパ舟が使われた。

だが十六島は、低湿地の宿命ともいえる洪水には、長く悩まされ続けた。秋の台風シーズンが来る前に収穫を済ませるために、この地域の稲はもっぱら早生わせ種が植えられたという。

▲加藤洲十二橋の景観。家と家をつなぐ橋が連なっている。
現在残っているのは11橋で、住民によって「思案橋」「黄門橋」「憩いの橋」などの名前が付けられている。

洪水に悩まされながらも川とともにある暮らし

明治になり、利根川の改修工事が始まっても、洪水は一向に収まらなかった。なぜなら当初の改修は、舟運の維持や利水を目的として、川の水深を増す「低水工事」だったからだ。

堤防のかさ上げなど洪水防御を目的とする「高水工事」へと移行したのは、河川法が成立した1896年(明治29年)のこと。この工事は30年以上かけて完成したものの、大洪水は断続的に発生した。そこで、1949年に新たな改修計画が立てられ、水門や排水機場などが整備されて、少しずつ洪水の被害が減っていった。

十六島の暮らしを大きく変えたのは、1964年に始まった土地改良事業だ。利根川と常陸利根川のしゅんせつ土を埋め立てに利用するもので、これにより江間は埋められ、道路になった。このとき、加藤洲の江間だけが、観光用に残された。

サッパ舟1艘がやっと通れるほどの細い江間と、板を渡しただけの簡素な橋の連なりが、川とともにあった水郷の暮らしと歴史を今に伝えている。

▲かつて共同で農耕用の牛を飼っていた小屋。牛は各戸の桟橋から舟に載せた。

▲家ごとに舟に乗り降りするための桟橋が設けられている。

▲小さいながらも、しっかりとした造りのドック。

 
■アクセス
潮来側の船乗り場へは、JR鹿島線潮来駅から徒歩約5分。
車の場合、東関東自動車道潮来ICから7分。
 

過去の「ドボかわ」物件を見逃した方も、全部見ているよという方も、
こちらをクリック! 魅力的な土木構造物がいっぱい

  

【冊子PDFはこちら

関連記事

しんこう-Webとは
バックナンバー
アンケート募集中
メールマガジン配信希望はこちら