歴史資料

絵で見る江戸のくらし 12.千住宿と医師たち

文・絵=善養寺ススム

千住宿と医師たち

 今回は日光街道・奥州街道初の宿場《千住宿》のお話でございます。江戸っ子は《宿》を「じく」と発音しますので、これは「せんじじく」と読みます。新宿も「しんじく」が言わば正しい発音です。どうも、口を尖らす発音は嫌ったようですね。

江戸最大の宿場

 江戸後期、宿場というのは、おおよそ一刻歩いた距離に整備されました。一刻は今の二時間です。千住宿は、端は日比谷線の三ノ輪駅(南千住)あたりから、向こう端は今の荒川放水路の河川敷まで(約三キロ)と長大でした。その大きさは、江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)の中で、最も大きく栄えていたのです。
 何故こんなに大きな宿場なのかと申しますと、千住大橋のあたりが、関東一円からの物資の集積地だったからです。江戸の西側は丘陵地帯ですが、こちら側は足立から埼玉に及ぶ平地で、豊かな農地が広がります。そこで、巨大なマーケットである江戸へ売りたい人々にとって格好の集積地となったのです。
 集まるものは、野菜、米、川魚の他、秩父の山からの材木や紙、農地からの藁、燃料、陶器なども集まりました。さらに《川越夜船》と呼ばれる、川越からの船便(現代の夜行バスのようなもの)の港としても賑わっていました。その交通の便の良さは、農地の肥料となる肥を江戸から運び出す便の良さとも重なりました。また、様々な物資が集まることから、手工業の職人も多く住みました。郊外は武士が少ないですから、江戸市中と違って、ずっと伸び伸び暮らせたことでしょう。

学問と医者の町

 経済的に豊かな千住宿は、八代将軍吉宗が、千住の寺子屋での教え方を取り立てて、庶民の学問を推奨したこともあり、学問、特に医学が盛んな町でもありました。
 一番有名なのは、文豪・森鷗外でしょう。江戸の人ではありませんが、明治四年に父・静男がここに橘井堂医院を開業しました。鷗外はここから軍医学校に通いながら、千住仲町に住む元幕府医学館の教授・佐藤應渠(おうきょ)に漢詩を習っておりました。
 もうひとりは、江戸中期の秋田の医師であり思想家である安藤昌益(しょうえき)です。彼の著書『自然真営道』が発見されたのが、千住の富豪・米問屋の橋本屋でした。なにしろこの本は《東洋のマルクス》と言われる働く者の理想社会論を説いたもので、当時としては幕府否定の危険な革命本でした。昭和になると、カナダの外交官・エドガー・H・ノーマンによって世界に紹介され、レーニンも驚愕したという話ですから、ただ者ではありません。そのためか、GHQで昭和天皇とマッカーサーの通訳までしたノーマンでしたが、アメリカに共産主義のスパイと疑われ、謎の自殺死という最期をとげました。

江戸時代の骨接ぎによる脱臼治療。武道の発展とともに、骨折や脱臼の治療も成熟していたといわれ、一説には江戸前期には世界で最も進んでいたとされる
大工の救世主「骨接ぎの名倉」

 そして、読者の皆さんに関係深いのは、江戸中期から昭和まで、職人の救世主と言われた《骨接ぎの名倉》でございますね。特に建築・土木の職人達は骨折や脱臼は多いですからね。切り傷なんかは唾をつけても治しましょうが、骨折、脱臼はそうもいきません。
 江戸時代には今日と同じように、柔術師が骨接ぎを担うようになります。ところが、偉い先生はなかなか庶民を診てくれませんし、下手な骨接ぎに治療されると職人生命が奪われかねません。それで、江戸の職人が怪我をしますと、駕籠(かご)に乗せられ千住へ運ばれました。そんな風に押し寄せる患者のために、千住宿には治療専用の宿が五件もあったそうです。あんまり有名なんで、大正時代に工事が始まった荒川放水路は、名倉医院を迂回するように掘られたと言われるくらいです。
 この名倉医院、現在でも江戸時代の趣を残した建物で開業しており、将軍が鷹狩りの際に立ち寄る屋敷でもあったため、重厚な長屋門が見られます。しかし、決して細々と診療しているわけではありません。明治以降は外科医の発展に大きく寄与し、昭和になりますとお茶の水のニコライ堂前にも開業、今では十二階建てのインテリジェントビルになっていますが、正面には大きな石灯籠と箱庭があり、本家の風情を思わせる造りが粋です。

 
善養寺ススム


1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など

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