歴史資料

木の国・石の国のインフラ

Episode7 〜多民族国家と単一民族国家のインフラの考え方の話〜

SPQR技術士事務所 中川 良隆

はじめに

 前回までに、火事が頻発した江戸を不燃化できなかったのは、幕閣の能力の問題、とのことを明らかにした。今回は多民族国家と単一民族国家のインフラの考え方について紹介する。

8.国家を統治するためのインフラの話

 木の国・日本と石の国・古代ローマのインフラの考え方は、どのように違うのだろうか。視点は従順な単一民族国家と戦闘的な多民族国家の「主食の供給と娯楽・憩」である。

ローマ帝国と江戸時代の世相

 ローマ帝国は約500年。江戸幕府は260余年存続した。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の言葉を残したローマの詩人ユウェナリス(60年−130年)は「パンとサーカス」と世相を揶揄した。その意味は、権力者から無償で与えられる「主食と娯楽」によって、ローマ市民は政治的に盲目となり、衰退するであろうとの事。しかしそれから、約360年も大帝国は存続したのである。
 一方、江戸時代。度重なる飢饉に幕府は1649年に、農民の衣類は麻と木綿。早起き、日中は農作業、夜なべして縄で俵を編む等、夫婦ともよく働く「倹約、勤勉」の内容の慶安御触書を出した。この時代から幕府は約220年続いた。
 「パンとサーカス」と「倹約、勤勉」のどちらを選ぶかは、自明であろう。

「パンとサーカス」のための施設

図26 コロッセオ

図26 コロッセオ

 18世紀の歴史家ギボン著『ローマ帝国衰亡史』に、「世界史上人類が最も幸福な時代で、繁栄した時期はドミティアヌス帝の死(96年)からコンモドゥス帝の登位(180年)迄」と記している。その時代の国防費は、歳出の70%強。太平洋戦争初期のわが国の軍事支出とほぼ同じ割合。平時にこの数値なので、内乱や外敵が侵入したら増大する。軍事費比率が大きい理由は、属州税が10%と少ないため。江戸時代の5公5民と言われた年貢よりはるかに少ないのだ。
 ローマ帝国の構成民族は、ほとんどが過去にローマ人に征服された人々。したがって内心面白くないことは間違いない。彼らの不満で内乱が起きたら、軍事費は増大し、10%の属州税では不足して、増税。それがまた不平不満を引き起こし、負の連鎖となる。多民族・被征服民族で構成される国家は、単一民族国家に比較して国をまとめることは、はるかに難しい。不満解消のため、「パンとサーカス」の世界が必要であったのだ。
 パンとは小麦、サーカスとは戦車競走・剣闘士競技等の娯楽。癒しとは入浴。これらの提供により、被征服異民族を手なずけ、内乱の芽を摘んだのだ。
 小麦の提供は、度重なる外征によりローマ軍の基幹をなすローマ市民が、耕作が出来なくなったり、戦勝により安い農作物が輸入されたりしたため、生活が苦しくなったことが原因である。このため当初は廉価、後に無償で小麦を提供した。なおローマ市民とは、属州民や奴隷・女性等は除かれる。
 小麦の主生産地はエジプトやカルタゴ。20万トンにも及ぶ小麦を、ローマまで海路2,500kmも運ばなければならない。皇帝が穀物供給指揮(クーラ・アノーナエ)を執っていたので、飢饉の時には皇帝ですら吊し上げを食う状況もあった。このため小麦運搬船主にインセンティヴを与えたり、港には荷役が直接出来る長大な岸壁を造ったりした。また生産地エジプトが不作の時には、ローマから逆送までもしているのだ。

 
図25 キルクス・マクシムスの模型

図25 キルクス・マクシムスの模型

 次にサーカス(遊び)について。ローマ市内に、戦車競走場は30万人収容のキルクス・マクシムス(図25)を始め5か所。円形劇場は1万5千人収容のマルケルス劇場を始め3か所。円形闘技場は5万人収容のコロッセオ(図26)を始め3か所。公共浴場は、前記したように1日6,000~8,000人も入浴できるカラカラ浴場を始め大公共浴場・テルマエが11か所、中小公共浴場・バルネアが約900個所もあった。テルマエは総合レジャーセンターともいえる大規模浴場である。バルネアの経営は、よく分からないが、他はすべて公営。入浴料は今の価格で1人25円相当。娯楽施設は無料なのだ。
 首都ローマは100万人都市とはいえ、14k㎡と狭い。歓楽の都とも言えるほど、娯楽と癒しの施設が多数あった。これらの施設が首都ローマだけでなく、規模は色々とあるが、帝国各地に数100箇所もあった。帝国の辺境の地スコットランドや北アフリカ等でも首都ローマと同様に、娯楽と癒しを楽しむことが出来たのだ。
 そうなるとローマに征服された民族も、今までの独立を保つより、ローマの傘下で暮らした方が、遥かに安全で、文化的生活が送れると思ったであろう。
 皇帝や為政者たちは、これらの施設を造るだけでなく、自らも楽しんだ。芸人皇帝と言われた5代皇帝ネロは、戦車競走や演劇に出た。18代皇帝コンモドゥスは剣闘士皇帝と称され、剣闘士としてコロッセオに出場。これらの皇帝は悪帝と言われ、反乱が起り、自死か暗殺となってしまったが。驚くべきことは、このような悪帝が輩出しても、大帝国は500年間も維持できたのである。
 しかし出場までしなくても、色々企画をして観客を楽しませた皇帝は沢山いた。14代皇帝ハドリアヌスは、何遍もテルマエに行き、奴隷を含めた庶民と一緒に入浴を楽しんだと言う。機嫌取りかもしれないが、皇帝がローマの人々の前に、あちらこちらで顔を出すのである。
 昨今の「建設して終わりの箱モノ行政」ではない。多大な出費をしても、不平不満からの内乱を鎮圧するための軍事費増大より遥かに安い、と考えたのだ。
 娯楽や癒しの施設の建設・運営のみならず凄いのは、人材登用。皇帝の出身地は、約60%がイタリア以外、すなわち元被占領地。もっと凄いのが、父親が奴隷という皇帝が2人もいる。ローマ世界に首都ローマ並みのインフラを整えるだけでなく、ソフト面でも属州民が、立身出世が出来、不平不満を和らげ、意欲を持てる仕組みを作ったのだ。

 

江戸の主食供給と癒し・娯楽の施設

 江戸時代、数多くの飢饉があった。寛永(1640年頃)で約10万人、元禄(1695年頃)で約10万人、享保(1732年)で10万~30万人弱、宝暦(1755年)で10万人以上、天明飢饉(1785年頃)で30万人以上と多数の農民が、餓えがもとで死んだ。この他にも多くの飢饉があり総数は100万人を超えたであろう。年平均約4千人、現代の人口規模に換算すると、年平均1万7千人にもなる。原因は天候不順等であるが、日本全土が不作だった訳ではない。余剰地から不作地へ輸送すれば殆ど防げた。しかし幕府指揮で大規模な対策をしたのは、享保飢饉ぐらい。元禄飢饉では、農民救済よりお犬様大事。幕府や各藩が関所を設け、物流を阻害し、藩大事が、大きな要因となったのだ。
 街道は基本的に荷車使用禁止。河川交通は盛んであったが、多数の川関所。海の幹線、大阪―江戸の航路は、船乗りの努力で航海日数は最短2.3日と短縮されたが、遠浅の海を理由に千石船が直付けできる岸壁がなく、荷役に平均10日位かかったと、石井謙治著『和船1』に記している。幕閣には、陸運・水運の効率化なぞ、眼中になかったのだ。
 合田良實著『土木と文明』に富山の東岩瀬湊、岡山の玉島湊等、千石船を横付け出来る岸壁があったと記している。江戸湾は遠浅だが、1,500m程度沖迄埋め立てをすれば、物揚げ岸壁は建設できた。それは大工事ではあったが、当時の土木技術で十分可能である。しかし江戸湾防衛のみを考えた幕閣は、海運の効率化は無用と思ったのだ。
 次に娯楽と癒しの施設。大衆娯楽の歌舞伎と相撲、癒しの銭湯は、公営でなく民営であった。江戸に初の常設の歌舞伎小屋(中村座)が出来たのは、寛永元年(1624年)。初期の芝居小屋の屋根は舞台の上のみで、観客は野天であった。屋根付きの芝居小屋が造られたのは1724年(享保9年)である。
 芝居小屋は周囲に数々の芝居茶屋や浮世絵の版元などを配した歓楽街の中核であった。そうすると幕府としては悪所であり、その封じ込めのため天保13年(1842年)、浅草猿若町に芝居小屋群を移転させた。中村座と市村座は240余年のうち3回も移転している。そして前記したように185年間に33回も全焼。移転に火災頻発では、安普請の木造建築しか建てられなかったのである。
 実は江戸城の火災について書き忘れがある。それは、江戸時代に36回の火災があり、そのうち焼失面積1万㎡以上の大火事が13回あった。安普請でなく、防備が厳重なはずの将軍居城がこれである。そして3代将軍家光の時代、焼失面積3万㎡以上の大火が2度あった。寛永11年の時は『寛明日記』に、寛永16年は『明良洪範』に家光が「火事は天災と言った」と記してある。「鎖国による科学的精神の欠如」と記した和辻哲郎が嘆くわけである。鎖国を推し進めた家光には、科学は理解不能であったのだろう。
 芝居小屋の収容人数は、中村座は1,500人程度の収容。江戸3座を合わせても5,000人にも満たない。入場料は桟敷で1人331文、平土間で237文。1文25円とすると、随分高い入場料となる。
 一方、相撲は1684年に、興行が許可された。大阪・京都や江戸の神社や寺の境内で興行が行われ、土俵の上に屋根があり、客席は野天であった。
 癒しの銭湯は、江戸で天正19年(1591年)にはじまり、最盛期江戸市中に約600軒あった。入場料は大人1人150円程度と安くはない。銭湯は庶民の娯楽、社交場としての機能はあったが、ローマのテルマエのような総合レジャーセンターとはいかなかったのだ。
 江戸時代の娯楽や憩の施設は、古代ローマのように公営ではなく、純粋民間事業。さらに江戸の娯楽施設は倹約令に逆行しているとのことで、幕府は奨励していたわけでは、なかった。

癒し・娯楽施設の建物の構造

古代ローマでは、為政者が直接関与したので、簡単に燃えては権威にかかわる。このため耐久的な石造やコンクリート造となった。
 一方、江戸時代は民営で、将軍や幕閣が江戸市民とともに楽しむことなぞ、考えもしなかった。また娯楽や癒しの施設が燃えても、直接、幕府の権威にかかわるわけではないし、将軍居城の火事頻発で、民間建物の耐火構造の指導など出来なかったのであろう。
 次回は外敵侵入を考慮したライフラインの考え方、木の国・石の国の纏め、コンクリートの有無による世界史の変化を推測する。

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