歴史資料

木の国・石の国のインフラ

Episode6 〜江戸時代の為政者の能力(鎖国と参勤交代からの視点)の話〜

SPQR技術士事務所 中川 良隆

 

はじめに

 前回は火災多発都市江戸を改造できなかったのは、日本人の技術の未熟が原因でないことを説明した。今回はその理由が、為政者の能力かどうかについて検討した。

7.徳川幕府の為政者の能力

 日本民族は忍従・受容的で新しいもの好き・技術力があった。しかし大火事が多発しても耐火都市を構築出来なかったのは、為政者の能力不足となる。今回は、鎖国と参勤交代の観点から江戸の為政者の能力について検討した。

鎖国の必要性

 キリスト教の教えは、神(ゼウス)が一番の考え方。すなわち天皇や関白・将軍家第一の否定。仏教や神道文化の破壊により国の秩序が乱れると考えた。
 豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出した後でも、キリスト教の信仰を禁止しなかったし、貿易を盛んに行なった。徳川家康は、1612年にキリスト教を禁止したが、秀吉が始めた朱印船貿易を継続し、ウィリアム・アダムス(三浦按針)等の外国人を重用し、貿易の実利を認めていたのである。
 鎖国の契機となったのは、島原の乱(1637年12月~1638年4月)。もともと、島原と天草の農民3万人が、領主の過酷な年貢に対して一揆を起したのである。同地がキリシタン大名の小西行長等の領地であったため、浪人となった旧家臣やキリシタンとも結びつき、複雑な関係にあった。幕府はこの乱を口実として、鎖国(1639年)に繋げた。そして黒船来航を契機とした1854年の日米和親条約締結まで210余年、国を閉じてしまった。
 キリスト教禁制としたのは理解できるが、鎖国にした理由はよく分からない。たしかに当初、ポルトガルをはじめヨーロッパ諸国は、インドやフイリピンのようにわが国の植民地化を狙った。しかしフロイスが記すように、日本人の優秀さに断念したのである。
 わが国が唯一、外敵から攻められた元寇。文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)は、神風によって救われたのではない。対馬等ではさんざんに打ち破られたが、九州本土上陸を、鎌倉武士の勇猛さで阻止している。蒙古軍は国への帰航時や戦闘後の帰船時に台風に会い、海の藻屑となったのである。
 鉄砲の製造能力、武士の勇猛さから、外国を恐れ、鎖国する必要は、まったくなかったのだ。
 司馬遼太郎著『歴史の世界から』に「家康の功罪は大きい・・かれの家系を維持するためにわれわれ日本人は、300年、たった一つのその目的のために侏儒(こびと)にされました」。「徳川時代・・・は管理社会などととても言えたものではない。能率などどうでもいい。人間をいかに反乱させずに安穏に暮させるか、この目的で組織された社会です」と記している。
 鎖国や参勤交代は、外国からの刺激による諸藩の改革や富国強兵化を防ぎ、徳川の世が長く続くことを願ったものだ。

鎖国による科学的精神の欠如

 和辻哲郎著『鎖国』に「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した。(その理由は)鎖国による科学的精神の欠如。合理的な思索を軽視し、偏狭な狂信的(神国・大和魂)に動いた人々が、日本民族を悲境に導き入れた」と記している。
 鎖国をしている間に、ヨーロッパではガリレオの天動説、ニュートンの万有引力の法則の発見、フランクリンの避雷針の発明、ジェームスワットの蒸気機関の改良等、数多くの発明発見が行われた。
 一方わが国は、発明発見の基礎となる科学的な考え方が流入せず、迷信がはびこっていたのである。迷信に由来するお触れには、綱吉による「生類憐みの令(1687年)、吉宗による「4上水の廃止」等がある。『東京100年史』によれば、お犬様の年間経費に98億円相当かかったとのこと。10万人の農民が、飢えが原因で死んだ元禄飢饉(1695年~1696年)の時期。これらが悪法であることは、考えれば分かりそうなものだが。
 また大名の軍船や密貿易を恐れ、寛永12年(1635年)に軍船を対象に「500石(75トン相当)以上之船停止之事」の「大船建造禁止令」を発布。また一般和船の構造には「帆柱檣(マスト)2本以上の禁止と船底竜骨の禁止」が含まれていたようだ。この項目は当時の触書になく、1842年の「三檣禁止は祖法」のお触れに記すだけで、異論はあるが、和船の構造はこの様になっていた。1本マストは操船性、平底は耐波性の問題がある。この他にも荷の積卸の容易さから、甲板が部分的に無かったり、舷側が低かったりしていた。
 このため、和船の海難事故が多発し、奥村正二著『火縄銃から黒船まで』に「江戸時代の海難事故数は、商船だけについて見ても毎年1千件を越えたと推定されている。海難事件の量と質、両面から見て、世界に類例のないことである」と記し「板子一枚下は地獄」の世界なのだ。江戸の火事同様、世界一。これにより海運コストは、非常に高くなった。
 さらにビックリするのは、技術革新を禁じた触れ書「新規法度」が将軍吉宗の時代(享保6年(1721年))にあった。本来、贅沢禁止の趣旨で「惣て新規之儀、器物織物之類一切仕出候事可爲無用候。・・・呉服諸道具書物類は申すに及ばず、諸商売物菓子類にても新規に巧出し候事、自今以後、固く停止たり」とある。器物・織物・呉服・道具・商売物・菓子と多くの物の発明・改善を禁じた。これでは、人々の創意工夫の意欲は減退してしまうであろう。
 この様な制約のもとでも、意欲溢れる江戸の職人は、竜骨に代わる「航(カワラ。厚い敷板材)」を設けたり、一本の帆柱に横帆を取付けたり、さらに強い織帆の発明と、涙ぐましい努力をしている。しかし航は主に船底部分のみで、「出」が少ないため、船の横滑り抵抗が小さい。竜骨は船首から船尾まで貫通して「出」が大きく横滑り抵抗が期待できる。物理的王道から外れた中での努力であった。テレビの『暴れん坊将軍』の主人公、英邁と言われた吉宗ですら「4上水廃止」や「新規法度」を行っているように合理性が欠如していたのである。
 江戸時代に石造建築が無かったのかと言うと、平戸のオランダ商館に石造り倉庫が2棟あった。1637年建造の倉庫は31m×12m、石壁の高さ7m。1639年造(図24。2011年復元)は41m×12mの3階建。石材は現地から約8㎞の川内港より運んだ。これらの建物にキリスト暦の建造年が刻まれていたこと、或いは洋風の大建築との理由で、1640年、幕令により、破壊されてしまった。「坊主(キリスト教)憎けりゃ、袈裟(建物)まで憎い」である。瓦屋根・漆喰壁の土蔵造りよりも耐火的なのに惜しいことをしたものだ。しかし鎖国を押し進めた、幕閣の頭では無理だったのである。

参勤交代と幕府財政の悪化

 当時の日本人の技術力をもってすれば、石造り或いは、土蔵造りの街への改造は困難ではなかったはずである。しかしそれを実現するには当然、お金が必要であるが、ないことも事実であった。
 江戸時代中期以降、財政破綻のため、享保(1716年~1745年)、寛政(1787年~1793年)、天保(1841年~1843年)の三大改革を行った。その大きな原因は、大名の力をそぐための参勤交代(1635年)や、ご普請の強制である。
 山本博文著『参勤交代』によれば、松江藩(18.6万石)の文化元年(1804年)~文化15年の年出費は14万両(140億円相当)。内訳は俸禄45%、国元入用20%、江戸入用30%、参勤交代費用4%であった。ヴァポリス著『日本人と参勤交代』によれば「参勤交代と江戸藩邸、江戸詰の藩士の費用が全藩収入の50~75%を占める」と記している。凄い費用負担が大名、すなわち農民にかかり、4公6民や5公5民という重税の原因となったのだ。
 5公5民とは50%の年貢で、必要経費の控除もなく、現在の最高税率(所得税+地方税)を貧農にまで課したのである。飢饉の時は、一揆が多発したわけだ。
 参勤交代を課すほど、幕府が諸藩の財力を恐れる必要があったのだろうか。奥村は「天領は全国の四分の一を占める」と記し、農地、主要都市、港湾都市、鉱山を抑えている。さらに外様雄藩に対し譜代・親藩を抑えに配置。したがって圧倒的優位であり、有力大名を恐れること、すなわち参勤交代の必要はなかったのでは?これも合理的に考えれば分かりそうなものだが。
 さらに驚くべきことに参勤交代の要路である街道では、宿場・伝馬制を守るため、町部分を除き荷車の使用禁止を強要している。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」。川越人足の雇用を守るため、指定個所以外の浅瀬通行や、渇水期の個人徒歩横断を禁止していたのである。
 将軍吉宗の孫で寛政の改革を指揮した老中松平定信は、大阪に下向した時、官許の私塾・懐徳堂学主で儒者中井竹山に4時間も改革の意見を聞いたと言われている。彼は求めに応じ、荷車の使用や石橋による大井川架橋を提言した『草茅危言』を差出し、陸運の効率化を説いた。しかし宿場伝馬制・川越人足の雇用が維持できないと採用されなかった。信長や秀吉のような開放的人材を生んだ尾張に比較して、閉鎖的な三河侍の血を引く徳川幕府の要人は、新規のことが嫌いだったようだ。司馬遼太郎著『覇王の家』に「譜代衆は・・・新事態はいかなる現象でも、憎悪か軽蔑の心情をとおしてしか視ることができない」と記しているように。
 街道では、馬子が引いた馬に振り分けで米2俵程度(120㎏位)の荷物しか運搬できない。竹山提案の大八車等の荷車にすれば、その数倍は運べる。一部、東海道の大津・京都間や駿府・江戸・仙台で牛車の使用を許可しているぐらいで、交通の効率化など考えていないのだ。司馬の言う「能率などどうでもいい」との考えである。
 谷釜尋徳著『幕末期における旅人の移動手段としての荷車の登場』に「東海道に1,081か所の橋がありこのほか13か所の大河は渡船か渡渉である。荷車は、街道のわだち掘れや橋梁の荷重制限を理由に、参勤交代が大幅に緩和された文久2年(1862年)まで禁止されていた」と記している。荷重制限なぞ、理由にならないのだが。
 ともかく効率無視。参勤交代は、江戸や街道の繁栄をもたらしたことは間違いないが、それは農民の苦労と、不効率な陸上・海上輸送の上に成り立っていたのだ。

為政者の能力

 いずれにしろ、数多くの大火を経験しても強権をふるい、都市改造する為政者がいなかったのだ。ロンドンやリスボン再建では、石造りの建築基準を作り、強制したのに。それは鎖国による科学的刺激の欠如が為政者の合理的判断力を失わせたことと、参勤交代等により国富の衰退が原因である。
 次回は「木の国と石の国のインフラの考え方」について紹介する。

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