歴史資料

木の国・石の国のインフラ

Episode4 〜 大都市の火災と防火対策の話(ローマ・パリ・ロンドン等)〜

SPQR技術士事務所 中川 良隆

はじめに

 前回は江戸の火災と防火対策について説明した。今回は石造りの街、ローマ・パリ・ロンドン、そして地震で壊滅的被害を受けたリスボンの話を紹介する。

5.ローマ等の火災と防火対策の話

 『ローマ皇帝伝』に初代皇帝アウグストウス(在位:紀元前27年-14年)は、「煉瓦の市街であった首都ローマを受けついで、大理石の市街を残した」と記している。そして彼は7つの大隊で、合計4,900人の消防隊を設けた。さらに火災時は近衛隊・都警隊・地区組織が消火をおこない、組織的な防火・消防体制を整えていた。そうすると防火対策は万全かと思うが、そうではなかったのだ。
 64年、皇帝ネロの時代に大火があった。『年代記』に「ローマは14区画に分かれていたが、そのうち完全な姿で残ったのは、4区でしかない。3区は焼け野原と化し、残りの7区は、倒壊したり半壊したりした家の残骸をわずかにとどめていた」の惨状であった。大理石の街といっても、木造建築が多かったのだろう。
 ローマ市の改造のために、ネロ帝は放火をさせ、罪をキリスト教徒に負わせたとの悪い噂がある。いわゆる映画『クォ・ヴァディス』の話。さらに母親・妻殺し、放蕩や遊びに、新宮殿建設等の濫費と非常に評判が悪い。反乱のため自死した悪帝の1人なのだ。
 一方でネロ帝は「家並みは規則正しく区画し、道幅を拡げ、建物の高さ(21mから18mに)を制限し、共同住宅には中庭を備え、正面の防火対策として、柱廊を敷設した。ネロは『これらの柱廊は自分の金で建てること』を約束した。・・・住居については、一定の部分を、木材を使用せず、ガビイ産(ローマ東25km)かアルバ(ローマ南西25km)産の石を用いて堅固にするように命じた。これらの石には耐火性があるからだ。・・・邸宅所有者には皆、空き地に消火用機器を備えておくことを義務付ける。共通壁の使用を禁止し、それぞれの家が固有の壁で取り囲まれることを定める」と記している。
 色々な防火対策、特に石造建築の整備、住宅の共通壁の禁止、道路等の空き地の確保、避難や消火の動線となる柱廊の建設等。この時代としては最善の防火都市づくりをしたのではないだろうか。
 ネロ帝により耐火都市ローマ完成かと思うとそうではない。80年には3日3晩燃え続けた火事が発生した。ローマ市域は14k㎡。江戸は80k㎡と約6倍。ローマは同じ規模の人口といっても、高層の超過密都市。中々火事を防ぐことは、困難だったのであろう。

パリ

 フランス・ブルボン朝初代の国王アンリ4世(在位:1589年-1610年)は、大規模な再開発を行い、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。
 その一環として火事の延焼を防ぐため1609年に「建物の木製壁面の禁止」を命じた。それに続き、ベルサイユ宮殿を造り太陽王と言われたルイ14世(在位:1643年-1715年)は、ロンドン大火の翌年の1667年、建物の高さ制限(最大20m)、張り出し建築の禁止、建物の外壁の漆喰壁面の義務化をさせている。
 さらに時代は下がるが、第二帝政の皇帝ナポレオン3世(在位:1852年-1870年)は、薄汚れ悪臭に満ちたパリを「芸術の都」「華の都」と称されるように大改造をした。彼の理想都市は、大火で再建されたロンドンであり、「永遠の都ローマ」であった。ロンドンは彼が海外追放生活を送ったところ。ローマについて「私は第二のアウグストウスになりたいと思っています。なぜなら、アウグストウスはローマを大理石の都にしたからです」と手紙に記しているのである。すなわちパリ大改造には手本があったのだ。

ロンドン

図18 ロンドン大火図

 王政復古期のイングランド王チャールズ2世の時代、1666年9月にロンドン大火が起こった。明暦の大火の9年後である。
 火事の範囲は、図18に示すように城壁内が約8割、城壁外が約2割。2.4km×0.8kmの狭い範囲である。この当時の人口は約50万人。大火災の原因は密集木造住宅で、市内の家屋の約85%(1万3200戸)が焼失したが、意外にも死者は少なく、記録では6人であった。
 大火後直ちに国王の指示のもと、壮大な都市計画が構想され1667年2月に「再建法」が制定された。チャールズ2世はオランダに長期間亡命したことがあり、同地のレンガ造りの建物や整然とした街路の美しさに憧れ、それをロンドンの再建に生かしたのである。「再建法」は「建築は煉瓦造か石造に限る(木造禁止)。壁の厚さや、地下室の深さ、道にはみ出せるバルコニー・看板の寸法を規定。さらに内部に使える木材の寸法も決めた。表通りは4階建、裏通りは3階建、路地や横丁は2階建と階数を規制(図19)」等の法律である。また道路の直線性や幅員についても規定した。
図19 ロンドン再建計画 ここで建物に対する規制はうまくいったが、道路については地主の反対でとん挫。民主国家イギリスでは、国王の命令もなかなか実行できないということだ。それに対して、江戸幕府の命令は絶対的。大名屋敷や寺等の移転はスムースに行なわれたようである。

 

 

 

16世紀後半の日本とヨーロッパの建物の対比

 ポルトガル人宣教師フロイスは「我々の家は高層で何階もある。日本の家は大部分低い一階建てである。我々の家は石と石灰で出来ている。彼らは木・竹・藁及び泥で出来ている。我々の室の仕切りは石と石灰、または煉瓦で出来ている。日本の仕切りは紙の戸である。我々の屋根は瓦で葺かれている。日本のは大部分が、板、藁また竹で葺かれている。・・・木造であり、その壁は土でできているから、材質ははなはだ薄弱であって、わずかの火をもってまたたく間に灰燼に帰してしまう」と、ヨーロッパと日本の家屋の違いを記している。彼は1563年-1597年まで日本に滞在し、その間の見聞をもとに膨大な日本の歴史を纏めている。
 火事についての石造建築の優位性は間違いないが、我が国は地震多発地帯。地震対応はどうなのか。パリやロンドンは地震がないが、鉄砲やキリスト教を我が国に伝えたポルトガルは、地震多発地帯。その首都リスボンの地震と耐震都市づくりを紹介する。

リスボン大地震

図20 ポンパル様式の耐震構造

 1755年11月1日、カソリックの祭日、万聖節のミサの最中に起こったマグニチュード8.5-9.0のリスボン大地震の震源は、南南西約300kmの大西洋。リスボンを流れるテジョー河には、高さ15mの津波が押し寄せ、それによる死者1万人。市内の建物の85%が倒壊し、死者が2万人。5日間火事が続き、総計5万5千人から6万2千人が死亡したと言われている。当時のリスボンの人口は28万人で、2割強の市民が死んだのだ。リスボンは1531年には1755年以上の地震が襲い、死者3万人と記録がある。
 1755年の震災復興を指揮したのが宰相のポンバル侯爵(1699年-1782年)。彼の指導で、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になったという。大きな広場と直線の広い街路が新しいリスボンの象徴となり、今では「麗のリスボン」と言われる街を造った。
 ポンパルは建物の木製模型を作り、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性を確かめたという。世界最初の耐震建築(図20)であったのだ。
 基本的に鳥籠のように周囲に木材を密に配置し、壁は窓等の開口部を減らし、壁間隔を狭くしている。木材の弾力による耐震性と石材による耐火性を期待した合理的設計である。そして主要道路は22m、建物は4階建てに揃えた。建物の再建を急速に進めるため、規格化・プレハブ化も行った。
 さらに地震とその影響を調べるため国中の教会に「地震の継続時間、揺れの方向、建物の倒壊方向、余震の回数、被害状況、水位の変動状況、井戸の変動、動物の異常行動等」の質問をした。
 これらに対する回答は、現在も国立公文書館に保存されている。
 ミサの最中での地震。「キリストは信者を救ってくれない」との批判も出たが、一方、多くの信者が教会に集まっていたので、数多くの証言が得られた。いずれにしろ客観的かつ科学的に地震の性状と結果を調べたポンバルは、近代地震学の先駆者と評価されている。そしてリスボンの恩人ということで、テジョー河の見える公園に彫像が祀られている。
 ポンバルは大航海時代を先導したポルトガル人の末裔。さすがに科学的である。わが国は地震大国と称しているのに、「地震・雷・火事・親父」とあきらめが先行し、科学的解析や合理的対処は後手に回っている。後記する和辻哲郎が「鎖国により科学的精神が欠如した」と嘆く訳である。
 ローマ・パリ・ロンドン・リスボンともに城郭都市。基本的に石造りであったが、木造もあり、大火を経験することにより、外壁の防火対策、すなわち石造を徹底させた。それもローマやロンドン等の先例を真似て。さらに再建する建物の細部まで仕様を決め、早期復興のためプレハブ化を採用したことは科学的精神の賜であろう。一方、「神国日本は外国に倣う必要はない」と鎖国した徳川幕府は、大火事後に瓦葺禁止や4上水廃止と、訳の分からない事をしている。
 次回は「日本(戦国時代)人の能力と日本人の置かれた環境」について、歴史的側面を紹介する。

参考文献
●『1666年ロンドン大火と再建』矢島鈞次。同文社。1994年
●『リスボン大震災と啓蒙都市の建設』金七紀男。JCAS連携研究成果報告8
●『ローマ皇帝伝』スェトニウス。岩波文庫。1986年
●『年代記』タクトゥス。岩波文庫。1981年
●『ヨーロッパ文化と日本文化』フロイス。岩波文庫。1991年

ページトップ

最新記事

  • 絵で見る江戸のくらし 19.伝統建築と和釘

    絵で見る江戸のくらし 19.伝統建築と和釘

    文・絵=善養寺ススム

    「伝統建築は釘を一切使わない」と、よく言われますが、平成25年に行われた伊勢神宮の「式年遷宮」には、なんと七万本近い釘が使われています。 ...続きを読む

  • 絵で見る江戸のくらし 18.鋼と踏鞴製鉄

    絵で見る江戸のくらし 18.鋼と踏鞴製鉄

    文・絵=善養寺ススム

    前回は工具のお話でしたが、今回はその材料、鉄のお話でございます。来年は日本史好きの人には大事な年、幕末維新(大政奉還)一五〇周年です。...続きを読む

  • 絵で見る江戸のくらし 17.百八十年前の大工道具

    絵で見る江戸のくらし 17.百八十年前の大工道具

    文・絵=善養寺ススム

    今回は大工道具のお話でございます。イラストは文政年間(1818年~30年)に描かれた画帖の模写です。作らせたのは長崎・オランダ商館の館長を務めたヤン・ブロンホフです。...続きを読む

  • 絵で見る江戸のくらし 16.文化財の活かしかた

    絵で見る江戸のくらし 16.文化財の活かしかた

    文・絵=善養寺ススム

    私の住まいの近くに、江戸後期に建てられた名主屋敷の「長屋門」がございますが、いつの間にか「指定有形文化財」の看板が撤去されておりました。...続きを読む

  • 絵で見る江戸のくらし 15.江戸時代の都市の堀端

    絵で見る江戸のくらし 15.江戸時代の都市の堀端

    文・絵=善養寺ススム

    江戸や大坂は、日本の近代都市の象徴のような街です。その特徴は街の隅々に伸びる堀割りにあります。堀割りが重要だった理由のひとつは舟のためです。日本は馬車や牛車などの陸運が発達しなかった国ですが、その代わりを担ったのが水運です。...続きを読む

最新記事一覧へ